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2005年04月23日
野狐禅和尚の辻説法『眠い時こそ断崖絶壁』 №735
嘗て、師匠に「眠いなら岩の上で坐っていろ」と坐禅中に居眠りをしていた私に“喝”がとび、警策が唸りを立てて方に食い込んだ。
今日、暁天で久々に禅堂の前の“張り出した石”に坐った。顔に差し込む日の出は眩しい。しかし、素晴らしい。鶯は鳴き、山桜の花びらは朝日を浴びて薄桃色。若葉は勢いがあり、足下は百花繚乱。眠さが残っていた故に、石坐(当禅堂の居眠り者御用達の単)に坐ったが、余りの風景に、二重の意味で目が開いた。その時、思い出した禅語が、『無賓主(むひんしゅ)』という言葉。通常は、山岡や宮本などの武芸者が“剣禅一如”と敵と己を合一して戦わずして勝つというような場合や茶室での“決闘”に似た主客など、人と人の関係に於いて使われる。意味は「主は主に徹して、客は客に徹することにより、主客の対立を超越する境地」のことで、意外と理解し辛い。易しく言おうとすればするほど難しくなるが、まあ、「自分の立場と相手の立場を瞬時に見極め、阿吽の呼吸で相手と自分を相互浸透させて一体にとなり、“相手が自分であり自分が相手である”という心境になること。二項対立を瞬間に止揚した境涯と言ってもよいだろう。また、“無心”への昇華と言っても良いかもしれない。
目に朝日が飛び込み、鳥が鳴き、青空を静かに雲が流れ、少しヒンヤリとした微風が竹を戦がせ、我が頬を撫でる。其の瞬間、私は“自然の一部であり、自然は私の一部”であることを感じ、次の瞬間、己と自然の区別が無くなり、大声で“喝!”と叫んでいた。
何気ない日常に、真理が生きている。“無心”とは、心の完全なる拡散。何ものにも拘らない、囚われない、実に清清しい自由な気分だ。
慧智(050423)『自然の声は辻説法』。春の大子にて
投稿者 echi : 2005年04月23日 16:23