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2005年04月12日
野狐禅和尚の辻説法『無理会』№726
『無理会』は、“むりえ”と読み、坐禅修行において修得を目指す究極の“在り方”。『理会』は、理屈のことであるから、『無理会』とは“理屈なし”ということ。
では、何故、無理会が禅における究極の境地なのか。それを説明することは難しい。理由は、“理由”だからである。無理会は“理由なし”、正に全ての現象を“あるがまま”に受け入れること。理由を問わないこと。言い換えれば、迷いから解脱することなのだ。理会することは、迷いを引き伸ばしているに他ならない。
雨が降る。晴れ上がる。鳥が鳴く。月が出る。日が昇る。雪が降る。生まれる、病む、老いる、死ぬ。現代科学は“それ”の理由を解き明かし、人間にとって“都合が良い”ように自然を支配しよと考える。そして、一が解れば二に、二が解れば三に、と連綿たる迷いにはまり込む。そして、現代、素粒子物理学は、究極の物質が物質でなく“力”であることに到達したが、其の次には“力”の源泉を求める。知への欲望は果てることはなく、向上心、探究心として賛美の対象としている。しかし、それは何れも『欲望』に源泉があることは衆智であり、“満たされない欲望”こそが“苦”の源泉であることも衆智。それでも人間は、それを尽きることの無い欲望に翻弄される。そして、苦しみ続ける。言い換えれば、組みつくせず海の水を全て組み出そうとしているのと同じだ。汲み出しては捨てるが、それは循環する。大局的には、減らない増えない。つまり、苦しみは永遠。それが『一切皆苦』の原理。
人間は、解らないから苦しむ。解らないから不安になる。それは“知”であれ“情”であれ、“意”であれ同じこと。
もし、“解ろう”という意識を捨て、全てを在るがままに受け入れる勇気を手に入れたら、あなたは“どう変わる”だろう。
禅の修行は、無理会の心を会得すること。それが“無心”ということ。苦しむ心を捨て去ること。過去に拘らない。未来に囚われない。今・此処における己を全てとして生きる。すると、全てが輝き、心は絶えず満たされている。不安が無い。
以前、師に“無理会”だけは説明するな、と教えられた。しかし、私は、今日、その戒を破る。複雑怪奇な理由など無い。書きたいと思ったから書く。書きたいという気持ちは私の心の叫び。ただ、素直に、利他に生きたいから。この世の全ての“種”は、種の保存に貢献することが第一義的な目標であり、仲間の為に生き、仲間の為に死ぬことが使命であり、そのために“今”を全力で生きるようにプログラムされている。勝ち組も、負け組みもない。一人一人、異なった才能(強味・弱味)を自覚し、それを発揮して、仲間のために一生懸命に生きることが全て。仲間とは、山川草木森羅万象の全て。
もう、優劣、勝ち負け、貧富、男女、人種、国籍・・・。そんな差別や区別を止めて、『人間』として生きようよ。共食いは止めようよ。
『願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に、仏道を成ぜんがことを』
以上は、今日、財界のパーティに参加している間中、感じていたこと。疲れた。
慧智(050413)
投稿者 echi : 2005年04月12日 16:28