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2005年04月11日
野狐禅和尚の辻説法『足るを知れ』№725
立派な家を建てたが、無理な資金づくりが災いし、新築後間もなく家庭を崩壊させた方と会った。起業し会社は大きくなったが、不正経理が発覚して社会的制裁を受けている会社がある。株式を公開して市場から膨大な資金を調達し、キャピタルゲインを独占して有能な創業の同志を失った人がいた。無理をして高級外車を買い保険を軽視していて交通事故を起こして自己破産した人がいた。欲に眼が眩んで会社を乗っ取った中間管理職は不正が露呈することやオーナーの反撃が怖くて仕事は手に付かず夜も眠れずに体を壊して家庭をも崩壊させた者がいた。
裏口入学で偏差値の高い学校に子供を入学させたが勉強に追いつかない子供が自殺してしまった親が坐禅に来たことがある。その他、“嫉妬心”を背後に置いた“見栄や高望み、無理や分不相応”が齎す一瞬の“満足”のために一生を台無しにした例は枚挙に遑が無い。
最近は、猫も杓子も、競争だ、勝組だ、投資だ、株だ、金さえあれば何でも買えると豪語する“拝金主義者、拝物主義者”が巷を闊歩している。
確かに、資本主義社会の基盤は“欲求充足経済”。共産主義の“禁欲経済”とは正反対で、持てる者と持たざる者の収入や資産は、天地の開きが生まれ、情報化社会が“彼ら持てる者”の私生活の快楽的優雅さを流布させるために、世の中は“彼らこそ理想”という風潮に流されている。私は日本人自身が選択している体制や資本主義だ共産主義だという経済思想、自由主義だ社会主義だという政治思想に口を差し挟む気は無いが、一部の勝ち組を大多数の負け組みが支えるという米国型・中国型社会より、『最大多数の最大幸福(国民総中流化)』を実現する社会の方が、安全で安心な社会であることは事実であろうし、それを目指す事が大切だろうと考えている。しかし、“幸福”という概念は、民度、生活レベルや個々の価値感により大きく異なることは事実。勿論、其のこと自身は、“皆が同じ価値感”であることに比較すれば決して悪いことは無く、個性的で結構なことだ。しかし、こと『幸福』という概念に関して言えば、煎じ詰めれば、『“不安”が無い人生』だということが共有かできることだと私は思っている。言い換えれば“安心して暮せる”こととも言えるだろう。
“安心”という心理状態、言葉としての概念は、『未来に於ける毀損が担保されている心理状態である』という歴史的にも衆智されてきた事実がある。言い換えれば『日々是好日』『無事是貴人』という境涯にある状態なのである。
しかし、現実の社会に天災、人災という“不都合”は付き物。言い換えれば、誰でもが被害者や加害者になる恐れがある。問題は“そこ”の認識の差異なのだ。
もし貴方が『現実をあるがままに受け入れられる勇気』があったら、どうだろう。『足るを知る』ということは、“そういう事”である。
『禅』における究極の境地は『知足』即ち“あるがままの現実”を受け入れ、一瞬一瞬に策を弄せず、真正面から全力を尽くし、如何なる結果も素直に受け入れて生きる事なのである。今日のネット禅会前に、少しだけで良いから『足るを知る』ということの意味を考えて欲しい。
また、中国・韓国・北朝鮮の対日政策の現実の背後にある“嫉妬”と“集団ヒステリ行動”を伴うディストレス状態は、アメリカ政府の先導に悪乗りした“配慮の足りない”現代日本の政治の在り方にも問題があるだろう。勿論、嫉妬する側と、される側の功罪を比較するなどナンセンスではある。しかし、振り返るべきは、我々日本人は“必要以上の金や物”を占有していないだろうか?そして、何故“それ”を“共有化”出来ないのだろうか?それは“不安”だからではないですか?
坐禅に効能を期待し求めることは『坐禅』の目的を汚損することではありますが、坐禅は結果的に、“不安”を捨てる勇気が湧いてくるものです。生きている辛さ、老いることへの恐怖、病の結末への不安、死に対する恐れ・・・。それが無い状態、それが“大安心≒幸福”というものではないでしょうか。
慧智(050412)
投稿者 echi : 2005年04月11日 16:28