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2005年04月07日

野狐禅和尚の辻説法『転迷開悟(てんめいかいご)』№721

人間は迷う。それは未熟だからではない。14世紀のスコラ哲学者であるビュリダンは、腹をすかした驢馬を二つの干草の山の中間におくと、どちらにも動けず餓死してしまうことを観て『ビュリダンの驢馬』という概念を提示している。これは、どちらかの餌を食べようと、そちらの方向に動くと、他方の餌から離れてしまうことに囚われることからなのだ。『二兎を追うものは、一兎をも得ず』、実感ですね。つまり、哺乳類という類に属する動物は、大脳辺縁系が種により発達レベルは異なりますが、“弁別≒分別”が出来ます。つまり、分別は差別、区別の原因なのです。道徳や倫理は当然の如く関係しますが、打算や計算、作為などの心的機能にも大きく関わります。言い換えると『善と悪、快と不快、好嫌、功罪などを、大自然に代わって勝手に作り出し、価値感や文化という“先入観”を固定させます。禅では、そこを問題視して“分別を捨てろ”と云います。また、『策士、策に溺れる』とも云います。その反面、俗世間では、合理性や戦略性などと“分別”を賞賛し、それを“智”として肯定的にみています。その結果、『理と情の相克』なとという概念を創造し“迷い”や“苦しき”の元凶としています。更に更には『知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される』などという観点もある。勿論、これは誤りで、『理や知と情』は完全なる二項対立ではない。しかし、何れにしろ『理や情や知』を使い分けることがストレサーであり、『迷い』を生み出す心的機能であることは事実である。そして、人間は“迷い”の本質に出会って、捨てることしか“苦”という概念から抜け出すことは出来ない。故に釈尊曰く『一切皆苦』なのである。しかし、『苦』は実体ではなく、分別の結果である瞬間的な現象なのだから『一切皆空』となる。
 『禅』は、苦の本質を迷いながら悟とる生き方、生き様なのである。『煩悩』とは“迷い”でもある。しかし、我々は煩悩の塊でもある。その煩悩を知って捨てるしか『真の安心(完全な幸せ)』はない。言い換えれば、大きく迷い、大きく苦しめば苦しむほど“悟り”に近付く。正に『煩悩即菩提』なのである。
●Nさん!。迷いなさい。板ばさみで苦しみなさい。それが在野の修行です。其の修行の先に“悟り(大安心)”が有るのです。一日一生、一生一日。明日は明るく、新しい日です。過去に囚われ、拘る人間は苦しみの連続、正に生き地獄。囚われず・拘らず・偏らずに日々是好日、無事是貴人に生きる人間は、正にこの世は浄土です。死んでしまえば地獄も浄土・極楽もありません。全て生きている間の幻です。しかし、仏・祖師は、苦しみ続ける無智なる衆生の心を救うため、方便という手法で、「死後の救い」を暗示させ念仏に極楽往生を求めさせ、無明なる衆生の根性の苦しみを軽減させたのです。素晴らしいことです。しかし、禅に方便はありませんし、禅には真理に体当たりできる覚悟がいります。
 さあ、“それ”が解る活人諸君、今日も坐りましょう。
慧智(050407)

投稿者 echi : 2005年04月07日 16:31

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