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2005年04月06日
野狐禅和尚の辻説法『4月8日の灌仏会について』№720
今から三千年ほど前の四月八日(旧暦)、釈尊がカピラ国(日本でいう藩のような地位)の王(当主)である浄飯王(じょうぼんのう)とその妃である摩耶(まや)との間に、王子として生れ、ゴータマ・シッダルタと名付けられました。
伝説では、花が咲きほこる「ルンビニーの園」で生まれた釈尊は、誕生すると即座に東に七歩歩いて、右手を上に、左手を下に向けて「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と声を発したと伝わります。この伝説の真偽は兎も角として、意味は「私たち一人ひとりは、宇宙にただ一つの独自の命を与えられた尊い存在だ。」という意味で、八文字で“命の尊さ”を表現しています。しばしば巷では『天上天下唯我独尊』を自惚れや独善的など否定的に解釈する場合がありますが、真意は『この世に不必要な命はなく、山川草木森羅万象は、全て“個性的な”使命をもっている独自の存在だ』ということです。 釈尊はその後、父の過保護からルンビニ園で世間と遮断され、温室育ちを余儀なくされましたが、直観的に“おかしい”と感じて、“外の世界”を体験すると、そこには“生老病死”という現実があり、悩み苦しみ、出家を思い立ち、当時のバラモン教に倣い難行苦行を行ないましたが、心の痛みは癒されず、消沈して“坐禅”をしていた12月8日の夜明けに、忽然として“真理”を発見し、それを大衆に布教する段階で“それ”を検証しつつ“方法論”として完成され、十人の弟子達に伝えつつ、托鉢を続けながら辻説法を行い、陰暦2月、現在は3月15日(涅槃会)に、托鉢で頂いた傷んだ食べ物で食中毒を起こして亡くなったと伝わっています。「何故、傷んだ供物を食べたのか」については諸説がありますが、私にも経験がありますが、『清廉な心から提供された物』は、それが腐り始めていたとしても捨てられませんし、『自説』を実践している己では、他の者に食べさせて病気になる可能性があるなら自分で食べてしまうものです。私は疫痢で済んだ経験があります。
つまり、我々も、『正しいと確信できる説』に対しては、命がけでそれを実行しますね。釈尊は、“それ”を示すのが最後の使命だと思ったのではないでしょうか。私は“諸行無常”“諸法無我”“一切皆空”“一日一生・一生一日”“生死一如”“生死事大”“日々是好日”“無事是貴人”“山川草木悉有仏性”“万法一帰”などなどという一転語に秘められた真理を伝えるためには“毒をも喰らう”覚悟で“在野”で『来る者は拒まず、去る者は追わず』という姿勢で生きています。それが“己の使命”と確信しているからです。それも『天上天下唯我独尊』、一人一人には固有の使命があると信じているからです。そして、私は“己の使命”は、“自分の強味”に投影されていると考えているので、「強味を活かして全力で生きよ」と伝えているつもりです。世の中には“それ”に気付かず“下衆”な生き方をする者もいるでしょう。それでも彼は“唯一無比”の人間です。反面教師として自らを省みず何かを伝える使命を担って居るのですから立派なのですから、受け入れるのです。しかし無対立・無犠牲・自主独立。足して二で割るような妥協はせずに、『異質を止揚して両忘する』こととしましょう。本質的には善悪一如です。しかし、それを理解していない者は『悪因悪果善因善果』という法則性に随うのです。因果法則からは誰も逃れられません。しかし、“因”は変数です。そして“因と果”を結ぶ“縁”も変数です。故に“己”を信じ己に忠実に生きてください。もちろん“己”は森羅万象と同根。自他一如。『己の外に仏なし』ですよ。では、8日から再開します。
現代の菩薩ともいえるかもしれないローマ法王の遷化を心より悼みます。しかし、“神”は人間の創造した虚空の概念であり、最後まで『己の外に仏無し』という真理に出会えなかったことはお気の毒でした。再度、御遷化に対し謹んでご冥福を祈ります。
蛇足ですが、宗教を持つことは、それが如何なる宗旨宗派であれ、『我執』で生きるより素晴らしいことです。しかし、他宗の存在、言い換えれば多種多様な価値観を受容できないようでは、それは“宗教”とは言えないでしょう。宗教の肝は、“自利利他”の心です。
慧智(050406)
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737<>2005-04-05 (Tue)<><><>●野狐禅和尚の辻説法『8歳の夏の思い出』№719<> 出家・得度の思い出も、45年以上前経つと薄らぐ。しかし、その中でハッキリと思い出すのが師が仲良くさせて頂いていた龍澤寺の山本玄峰老師の言葉である。今日、寺の薬師堂の前で暫らく坐っていると、雨蛙が一匹、怪訝な目つきで私を見ていた。その時、雨蛙が「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」という、老師が酔って口にされた北条時頼の歌である。当時の私は8歳。剃刀を入れて頂いた夜のことで、意味は何も解らなかった。すると同様に剃髪して頂いた宗淵和尚がすかさず「コロコロ変る心に心を奪われるなよ」と耳元で囁かれた。それでもチンプンカンプン。それ故に45年経った今でも、その時の声の調子まで覚えている。蛙が語った「心こそ 心迷わす心なれ 心に心 心許すな」を観じて、自分では乗り越えてしまったと思っている病が心の奥底に未だにあるのを悟った。一日一生、一生一日。生死一如。今日生まれ、今日死ぬつもりで生きてはいるが、その心が捨てきれていない。『無心』であるつもりである限り『有』の世界から解脱できない。目の前の白梅、紅梅、水仙。膨らみかけたソメイヨシノ。膝の前には芹、ホトケノザが顔を出している。時が来れ芽生え、時が来れば枯れる。それこそが無心。ふと気が付けば蟻が膝の上にいる。何と素晴らしい事か。皆、無心に生きている。己以外は皆師である。
さて、俗に「人の振り見て我が振り直せ」というが、他人の陰口や悪口。俗にみ“無明”と言われる無智。あなたは、作為的な言葉に振り回され、己を見失ってはいませんか?
今度の8日は釈尊が誕生された日でもあり、今度の土日禅会では『父母未生以前の本来の面目』を、春爛漫の森羅万象に教わりましょう。降って良し、晴れて良し。しっかりと坐りましょう。
蛇足:2日ばかり説法が出ない環境に入りますので、お休みさせてください。では、禅堂でお会いしましょう。
慧智(050405)
投稿者 echi : 2005年04月06日 16:31