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2005年03月31日

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

論語「里仁」篇に、『子曰、徳不孤、必有隣』というよく知られた一句がある。一方、禅では“無功徳”を重視する。理由は“~のために”という道徳的行為は己への利益誘導であり、功徳ではない。言い換えれば“下心”からの行為である。しかし、『善因善果、悪因悪果』という一文もある。言い換えれば、暗黙の利益誘導である。良い結果を得たいから良い行為を行なう。これは“道徳”レベルの卑しい心であり、分別や差別の源泉である。
前出の『徳不孤、必有隣』は、「徳は孤ならず、必ず隣あり」と読み、意味は、正しい事をしていれば、例え孤立したとしても、必ず理解され支持者(隣人)が現れるということである。論語の解説書によれば、この句は孔子の体験談からの消息(≒インフォメーション・情報)とまり知識からではなく情報を背景にしているようだ。一般的な日常、社会生活では道徳を規準として動く常識派という『分別グループ』と、法律を規準として動く合理派という『弁別グループ』、法律すら無視する『無法グループ』、そして真理に随う『無心グループ』の便法上4グループに分かれる。勿論、そのような分類に意味はない。六道輪廻を考えれば、一瞬一日の間でも人間の心は無常である。
 今、道徳という性善説文化を築いてきた当たり前の社会ルールが壊れ、法治という性悪説を基盤とする社会ルールで動いている。法律に抵触しなければ、“何でも有り”というのが今の社会の様である。ここは日本。アメリカでも中国でも北朝鮮でもない。せめて“道徳”をデファクトスタンダードに暮したい。しかし、本来、道徳はローカルルールであり、日本の道徳が世界の道徳にはなり得ない。それは、道徳は文化を変数としているからである。
さて、表題の『“ひとり”じゃない』というのは、山川草木悉皆成仏、全ての現象は仏性そのものという真理を踏まえていれば『万法帰一』。“ひとり”という概念は存在しない。人間は微生物と細胞の補完共同体であり、全ての自然現象は『一切皆空』という言葉で染まされるように“空”という完全調和を“相互補完”で保証している。故に“ひとり”という概念は無いのだ。
 今日のネット禅会では、“空”を思わずに“空”に成り切って坐って欲しい。
慧智(050331)この説法は今日で2年目を終わり、明日からは3年目となる。ネット配信以前を数えると、7年目に入る。

投稿者 echi : 16:33 | コメント (0)

野狐禅和尚の辻説法『山形拄杖子(さんぎょうのしゅじょうす)』№714

 この句も公案に関連しているので、詳しくは述べないが、表面上の意味は「山から切り出したままの姿で何の手も加えていない杖」です。行脚する禅僧にとって“杖”は重要な意味を持っています。橋の少ない時代では、渡るための川の深さを測り、道無き道を歩く時は自分の体の一部、センサーのような役割を担いますし、説法の時は円相を描くなどの道具となり、仏法の敵から心身を守るシンボルなどになります。
 つまり、『山川草木悉皆成仏(この世の全ての現象は仏性そのもの)』から考えれば、この世の全ての存在の一つである“山形拄杖子”は正に仏性の化身であり、使われ方が全てを物語っています。ですから、蓮の花一輪でも、杖一本でも、猫でも虎でも、私たち自身を含めて、“自然”は仏であり、人間が手を加え(垢を付け)れば表面的には便利(人間にとっての都合良さ)になるのですが、エントロピーは増大して曇るのです。
人間と教育の関係も同じ。学ぶ事を支援することと強制的に記憶させることは違う。人間も自然の産物で、“旬”がある。人間が植物なら、土地と天候を母とし父として花咲き実を結ぶだろう。動物なら親から、そして親に準じる存在からの教えと自らの経験(修行)を通じて立派な大人になるだろう。そして知識を集めたり、創造したりするだろう。
南伊豆の作務に来ませんか?きっと何かが変わります。
慧智(050331)

投稿者 echi : 05:37 | コメント (0)

野狐禅和尚の辻説法『84000→108→3→5』№713

誰が数えたか解りませんが、人間には84000の毛穴があると云います。そして人間は無智・煩悩・迷いなどが起こす、人生を海に例えるなら“波”のような“感情”、つまり喜怒哀楽を一生涯に84000回を使うということです。これを中分類する数珠の数や除夜の鐘で御馴染みの108となり、それを大分類化すると『貧・瞋・痴(とんじんち)≒無明』の3種に納まり、それを戒めとして纏めると五つ、つまりは『五戒』となります。その五戒は、1不殺生(生き物を殺すな)、2不偸盗(人のものを盗むな)、3不婬乱(性を乱すな)、4不飲酒(酒を飲むな)、5不妄語(嘘をつくな)というものです。言い換えれば、人間は生き物(眼に見えない微生物を含む)を殺ろし、人のものを横取りし、子供をつくる以外のセックスを行い、酒(薬は別)を飲み、何らかの嘘(自分に対する嘘を含む)をついて、それを自覚しているか出来ていないかは別にして暮していると考えられています。
つまり『無明』のなせる結果が3種の悪、百八の煩悩、八万四千の罪なのです。
しかし、般若心経に『無無明亦無無明尽』とあるように、実は完全なる無明などないし無明が尽きることもないので、日々、自分自身としては多くを望まず質素に森羅万象に誠実に、一日一日を“出来ること+すべき事”である過去に原因がある結果として、今・此処に現象して状態(結合した縁)を“生き切る”ことを人間としての上等な生き方とし、そのような生き方を手助けするのを菩薩道としています。
そして、“出来ること+すべき事+成果≒したい事≒生甲斐”という『心・頭・体の統合と現実』、即ち、この世の“メカニズム”を2500年前に釈尊は帰納法と演繹法を超越した“坐禅法≒禅脳思考≒誰にでも差別無くある潜在意識を総動員する言葉を使わない思考法”で解き明かしています。
以上は、生きる上での目標、懸念される課題、そして解決法を示して見ましたが、それらは読んで解るものでも、聞いて解るものでもなく、只只管に喜怒哀楽を起こさず、心を静かに坐るしか無さそうです。
どうですか?4月は禅堂も春。花が咲き乱れ、若葉が眼に染みるようになります。心地よい風も吹くでしょう。夕暮れの山々・深夜の星空・夜明けの光は素晴らしい。一度は坐って、“本来の己”に出会ってみませんか?
慧智(050330)

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2005年03月29日

野狐禅和尚の辻説法『向南見北斗』№712

『向南見北斗』は、「南に向かって北斗を見よ」と読みます。
さて、皆さんは、どうしますか?
鏡を使う、などと考えるようでは現代に毒されているとしか言えない。つまり、南だ北だ東だ西だという差別区別に囚われているようでは、“真理(万物の本質)”に近付くことは出来ないだろう。「父母未生以前の己に如何に」と問われ、必死になって考えるようなものだ。後頭部に眼があるわけは無いし、己という自覚が生まれる以前には現象すらしていないのは、衆智の事実、正に常識といわれる。しかし、其の“常識”という先入観に“疑惑”を持たせ、自由自在に観て感じて“常識”を捨てるところからしか“真理(万物の本質)”とは出会えない。言い換えれば、常識(経験的科学)や科学(限定合理性)の世界観では“真理”は見えるわけは無い。つまり、真理に出会おうとするなら、南に向かって北斗を見ることができなければ無理なのだ。しかし、森羅万象全てが“真理”の投影であるという仮説があるなら、真理はどこにでも転がっていることになる。
そこで、そもそも「南に向かって北斗を見よ」という指示、問いそのものの真意は何かを問題にしなければならない。「分別を捨てよ」と受け取れれば、「見ようと思っても見えないが、見ようと思わなくても見えている」ものは何か、と言っているのが解る。つまり、“有る・無い”という二項対立を基盤とする物理的な世界に無いものは何か。物理学の浅智慧をいくら廻らして見えるわけはない。そこには『色即是空・空即是色』の世界である、有ることは無い事を含み、無い事は有る事を含むのだ。それは、頭(電気信号で成立している神経系)では解らない。神経系+内分泌系+免疫系≒心を調和させた状態で“気付く”、森羅万象という現象の原点。物が生まれる以前の姿だ。それは“感じた後に開いた眼(心眼)”でしか見る事ができない。心眼は物理的な現象を観る目ではない。真理を見抜く眼である。それは、常識という世間の塵芥、知識という無智から離れなければ使い物にならない“仏性≒心眼≒生得の智慧≒空≒相互補完”。南に向かって北を観る事が出来る心眼なのである。自他一如、万法帰一・・・・。般若心経を指で読みなさい。耳で写経をしなさい。踵で聞きなさい。
慧智(050329)

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野狐禅和尚の辻説法『テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ』№711

 釈尊から5代目の弘忍大和尚(五祖)、その弟子で六代目の慧能大和尚、慧能大和尚の兄弟子が神秀和尚。弘忍が法を継がす相手を決めようと「明日の朝、廊下に自分が“これ”と思う仏法に関する一首を貼っておけ」と法邇を公募した。
そこで、一番弟子の一首が『身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時勤払拭、塵埃を惹かしむこと勿れ』。正に秀才の作。もう一首、弟弟子の小猿こと後の慧能。『身は菩提樹に非ず。明鏡亦台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん』と表面上の意味が正反対の一首。正に天才の作。これが『時時勤払拭』『本来無一物』という紙の裏表の公案の源流。それが『不思善悪』という公案に結ばれる。
 簡単に言えば、真理とはと尋ねられ『全て揃っているが埃が付き易い』と『何も無いので埃は付かない』という対立。そして『有る無しは無い』という3つの表現がある。全て秀でた者の境涯が表れている。勿論、大本は『一切皆空』であり全ては“補完”し合あうゆえに“空”であり、全ては自然の状態で完全調和している、というもの。
つまり、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ。さて前出の3種のテーゼが、さらに止揚(アウフヘーベン)されれば、如何なる表現となるか。
 簡単に『無』などと応えてはならない。さあ、一秒以内に応えろ!!!。
慧智(050329)

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2005年03月27日

野狐禅和尚の辻説法『春来草自生』№710

 『春来草自生』は、「春来たらば、草、自ずから生ず」と読む。森羅万象は“時節因縁”に応じて変化するのみ。春が来れば、草は自然と萌え出る。
昨日から“作務三昧”。甘夏の収穫を行った。果樹園は菜の花が咲き乱れ、たわわに実をつけた甘夏の樹が500本、1本におよそ100個が実る。5万個の収穫は一日では不可能だが、始めなければ終わらない。作務の合間には、山作務。倒木を片付け、石拾い。今年の秋には、参禅者が気持ちよく作務が出来るよう露天風呂ができるだろう。職人さんに聞くと、かなりの温泉が出るそうだ。楽しみである。多少、弱っている体も、実りに接し、春の色を目にして、“春来”に接すると、心なしか元気が湧く。自然は素晴らしい。小休止では、竹の子が顔を出している竹林で火を起こし茶を頂いた。足下には蕗の塔が、蓬が、・・・。大地にゴロりと横になる。青い空。白い雲。蝶も飛びだした。風も心地よい。正に“春”一色。『万法は森羅万象の全てであり、時が来れば“旬”を迎える。差別なく分別なく“自然(自ずから然かるようにある)』”。
慧智(050327)

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2005年03月24日

野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709

 世の中には、自分にとって不都合なこと、恥ずべき事があるとスケープゴート(贖罪の山羊)を作り上げ、自分の悪を隠すために「あいつのせいで止む無くやった」とか「あいつのせいでこうなったのだから、俺がこうするのは当然だ」とか見え過ぎた詭弁をたれ、善意の者に責任を転嫁し、コッソリと利益を貪る“卑怯者”が存在する。そして、その悪者は、猛然とした多弁で、繰り返し話している内に自分でも信じてしまい、善意の第三に本気で腹を立てることがある。仏教ではそれを『瞋恚(しんに)』といって最も忌み嫌う。そして、悪者の嘘が露呈し出すと、こんどは『嶰怠(かいたい)』という心を生み出し、ふてぶてしく怠け、居直り、今度は、それまでのスケープゴートに媚を売って取り入り、また新たなスケープゴートを作り上げて同じ事を繰り返す者がいます。
 今、TVニュースに度々登場している“俄か評論家”は、大なり小なり前出の傾向があります。勿論、“瞋恚”の主人公は言うには及ばないでしょう。
 ここで考えなければならないのは、事の良し悪しは別にして、俄か評論家となって知ったかぶり、“正義”を装って何を語ろうと、何も変えられません。
 今、日本は病んでいます。真に日本人であれば、この状態を放置してはおけない。
 今日、数十年ぶりに私の人生に大きな影響を与えて頂いた日本の教育哲学の重鎮である村井実先生とお話ができた。私が印象に強く残ったのは、『教育が人間を幸せにしたか?』という内容。思わず唸るほど考えさせられてしまった。理由は、これも尊敬する同業者でノーベル経済学賞を受賞しているベッカー博士の『教育と生涯報酬の相関関係』に眼を奪われていた私自信の軽薄さと視野の狭さに気が付いたからだ。
 そして、帰りの電車で寒いのにも関わらず汗を流しながら“発憤”している自分の姿に気が付いた。よし、これから命のある限り『教育と幸福』の関係にメスを入れ、『人間を幸せにする教育』を開発するぞと考えているのに気付いた。
 『瞋恚(しんに)』は、外に向かって憤り、怒り、攻撃する人間としてもっても恥ずべき心で、厳に慎まなければならない心。
『発憤(はっぷん)』は、内に向かって己の未熟さに憤り、怒り、己に対し檄を飛ばし、喝を加え、己が己を叱咤激励する心。
 さて、活人諸君。ストレスのメカニズムからすれば同じではあるが、あなたは『内に敵をつくる発憤型』なのか『外に敵をつくる瞋恚型』なのか。じっくりと考えて欲しい。そして、単に『自分評論家』として己を他人事のように見ないで、如何なる場面でも“主人公”として、前向きに考え行動して欲しい。それが“活人”の証なのだから。
蛇足だが、『競争』とは、己の至らなさを“敵”として己に勝つことであり、他人との相対的消耗戦とは考えない方が良い。なお、私は『他人との競争より協奏、協創』という考え方を支持している。
慧智(050324)

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野狐禅和尚の辻説法『和以為貴(和をもって貴しとなす)』№708

 『争』が賛美されている昨今、今一度“日本の心”である『和』を見直すことを真剣に考えなければならない時期が来ている。『和』は、決して“事勿れ主義”ではなく、相克状態を止揚した積極的で新しい対立解消の結果です。
 聖徳太子の十七条憲法の第一条に登場する“日本人”の“心”の在るべき姿を示した事が表題の『和以為貴』です。『和』は“和合”であり、全ての現象には“本質・真理”が投影されているので、両方を否定したり、片方に偏ることなく、対立を“和合”させて“本質を浮かび上がらせることこそを最優先とする考えで、現在のような未熟な知性からの単純な二元論(白か黒か)に陥らないことが大事です。しばしば、是々非々などという極論主義では、対立が構造化し、必ず“争い”がおきます。争いは“勝者と敗者”をつくり、最後は崩壊するというメカニズムを内包した縦社会へと向かいます。“和”は、言い換えれば“補完”であり、対立する意見から双方の良さを抱き合わせることで“平和(和らかく平な状態)”を建設します。“男と女”に対立があれば『人間』として和合されます。善と悪は“無”として和合されます。表と裏は、“一体、一如”として和合され、不可分不可同に帰結します。其の発想の原点が『色即是空 空即是色』です。『和』の発想は、単純に“足して二で割る”というような疑似一元論ではなく、『万法帰一』を拠り所とする、最小公倍数・最大公約数探しと言えば解り易いでしょう。男と女の例に準えるなら、最小公倍数が『人間』、最大公約数が『生命』と考えられますし、色即是空・空即是色の真理は貫かれています。金か精神か、頭か心か、古いか新しいか、・・・というような対立的な神様志向の偏った考えを捨て、両論を否定せず、肯定もしないという偏りのない『中正』を重視した生き方こそが“21世紀の日本人”であり、世界の対立の仲介者としての“あるべき姿”ではないでしょうか。
慧智(050324)

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2005年03月22日

野狐禅和尚の辻説法『下載清風(あさいせいふう)』№707

『下載清風』という禅語は、碧巌録45則に由来するので、詳細は碧巌録を読んで味わって欲しい。
 さて、『下載清風』の表面的な意味は、積荷を降ろした船が滑るように軽快に帆走している様子を描写している。考えてみれば、我々も重い荷物をヨタヨタと担いでいる状態から、荷物を下ろした状態を想像すれば、清々として風に乗って歩けるというイメージになる。これを禅語風に解釈すれば、苦の源泉である“迷い”や、その結果としての不安という“重荷”を下ろせば、清々した気分になれるし、もう一段踏み込んだ言い方をすれば“悟り”すらも捨ててしまえば、尚更、軽快に風に乗って大海原を悠々と帆走できるというもので、出典では、『下載清風』に続く句が「誰にか付与せん」とあるので、“伝えようも無い”という“爽快な気分”を語っているのだろう。言い換えれば『あらゆる柵や先入観、気負いなどという不安定な感情や気分、そして其の源泉となる分別の全てを捨て去った気分は、言葉では言いようのないもので、それこそが“無心”という最高の心の状態だと教えている禅語だと私は感じている。
 最近、勉強好きな定年退職者が町に溢れている。言い換えれば、重荷を買いに走っているように感じる。それまで守るべき対象であった地位も名誉も資産も収入も捨て、守るべき、と思う一切の気持を捨てて、年金暮らしが出来れば、この世は、そのまま浄土だろう。しかし、浄土に暮す人ならでは“何か”が・・・・。
慧智(050323)

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野狐禅和尚の辻説法『布施こそ自利利他、法施・財施・無畏施、そして無財の七施』№706

今日は、久々に休ませて頂いた。すると来客。知人は、この辻説法を時々読んでいてくれているらしい。そこで質問「先生のように力があれば功徳を積むことも出来るだろうが、自分は生きていくのがイッパイ。無智で、愚かで、地位も無く、財産も無く、力も無い人間はどうしたら功徳を積めるだろう・・・と」。この質問の裏には何か事情がありそうだが、敢えては聞かなかった。それは「功徳を積めるだろう」という文節に、功徳が必要だというに至った理由がありそうだったからである。
 “功徳を積むこと”に理由は無い。功徳を積むことに理由をおけば、それは「不清浄施」といって退けられます。坊主は在家の人々に道を説き(法施)、安心を与える(無畏施)、一般の方が寺への喜捨や公益団体に寄附をする(財施・信施)は“当然”。人々は助け合って生きて要ってこそ“人間”なのですから。ところが、“何も無い”という人でも“何かしたい”ということは素晴らしい。勿論、禅は“全てを捨てる”ことにより大安心が得られ、利他に徹することが自然となるとしています。言い換えれば、『全てを捨てた者』と『何も無い者』には、非なるが似ているものがある。その人には『無財の七施』という行為がある。それは、『眼施』、軟らかい視線で人に接する。『和顔悦色施』、微笑みに満ちた優しい顔で人に接する。『言辞施』、角の立たない優しい言葉で話す。『身施』、礼儀正しく接する。『心施』、善意を以て人に接する。『牀座施(じょうざせ)、人に席を譲ること。『房舎施(ぼうしゃせ)』、寝る場所に困った人を家に泊めることであり、“ある意味”で道徳的なことであり、だからこそ、誰でも出来るが、難しいことでもある。言い換えれば“全てを捨てた者には当然なことで、何も無い者には“素晴らしい”ことなんでしょう。しかし、そこに“下心”があれば、望んでいる方向とは“逆”に進んでしまいます。
 『功徳』を積もうなんて思ってはいけません。困った人を助け、無い者には与え、社会を明るく、他人を蹴落とすことなく生きているのが一番です。
つまり、人間は、己に素直になり、金だ支配だと息巻かず、無駄使いをせず、質実剛健に“淡々”と“当たり前”に“利他”に生きる事、それが一番の“功徳”だと思っています。
慧智(050322)

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2005年03月21日

野狐禅和尚の辻説法『人間は“解釈”する動物』  №705

“解釈”とは、言葉や文章、または物事(事実)の意味、即ち“事実”を観察者(情報の受け手)の知識(明白知)+経験(暗黙智)=知性レベルに従って類推、推測・推理・推定などの“思考(個性により論理的思考と感覚的思考がある)”を行いて評価し、言葉や文章、物事の『価値付け』を行い“個人的な新たな意味(価値付け)”を与える行為である。
 昨日の『禅会』前後の車座で、“友人”“知人”“家族”“夫婦”・・・など『人間関係』の関係性の定義について議論があり、それらには意外と大きな個人差(解釈)があることを再認識した。
 元来、『禅』では、“それら”を“分別”という表現で、“真金の曇り”として“捨て去る”べき意識である“差別の温床”としている。簡単に言えば、多くの場合、“定義”は排他性を約束する思考様式における必須の思考原点である“分別”、言い換えれば、差別の源流である二律背反化、二項対立化の源泉なのである。故に、“禅”においては、弟子の質問に対し、師は直接的に回答しないし、質問者である弟子に対して、師は“質問内容”が弟子の経験との関係で“止揚”可能なフィードバックをするのだ。だから“それ”を知らぬ者には禅問答そのものが難解と映り、師と弟子との間に未だ共鳴しうる関係が成立していない場合と同様、以心伝心は実現されないのである。つまり、質問者と回答者の悟りのレベルが拮抗しなければ、以心伝心は生まれず、当然、双方が自覚できるのである。そこで、禅の修行においては、師である自分を超えてゆくことが感じられた弟子にしか“印可(法系を担わせる)”をしないのである。
 話が少々ズレたので、元に戻す。
『人間関係』という人間同士の関係の包括概念(抽象名詞)に、その特徴、傾向別に固有の名詞が与えられたのが、友人関係、仲間関係、親類関係、一家関係、親子関係、夫婦関係などなどという名称と標準化された意味が与えられ、“普通名詞化”が行なわれ、更に“その”最小単位である関係には、“固有名詞化(山田さん夫婦とか、天皇ご一家など)”が行なわれ、“その関係”を言葉や文字、行為の形式で理解しようとする。
ところが、“そこ”には知識や経験などを変数とした誤った解釈となる問題が生まれたので、人間は“辞書・辞典”を発明して、“言葉の標準化”を行い、個人による勝手な解釈と伝播を食い止めてきた。
しかし、近代のように知識や情報の質量が飛躍的に拡大するようになりと、その所有量を関数とするな“階層化”社会が強化助長されて固定し、更には、印刷→通信→放送→??へいう文明の進化と情報の伝達スピードが飛躍的に大きくなったことから、知識や情報の質量は個人間で益々大きな差が出来、“縦社会”が完成されてきた。そして、昨今、元々は米国の軍事技術であり、DBの共有を求めて開発成長してきた“インターネット”という素人(無智で勝手な解釈をする者)御用達のメディアが生れ、新しい“ネット社会(非関係的情報網社会)”を作り上げてきている。
そこで、問題となるのは、『言葉の定義』による“差別”である。言い換えると、二項対立・二律背反である。
誰かが「私には“友達”がいない」と言ったとする。それを聞いていた人が「私は友達ではないの・・・?」と感じたとする。また、ある女性が「彼は家族です」と言ったとき“その彼”が彼女の夫で、それを聞いていたら・・・。ある経営者が「命の次に大事な金を投資して、利益を生む鶏を手に入れて大事な社員や株主に金を与えるのは、頭の悪い社員の稼ぎが無いからで・・」という話を、その経営者の社員が聞いたら・・・。さて、みなさんはどう思いますか?
纏めると、“友達”と“非友達(友達以外)、他人>知人>仲間≒友人≒友達>親友>家族(親戚>親子≒同居>子供≒夫婦)>自分などのような価値例で示されるように、順序は別にして、正しく『差別構造』なのです。また、それが“道徳(子供は何より親を敬え)”や“倫理”、および倫理や道徳の延長線上にある“神教”の世界です。
ところが、仏教、特に仏心宗といわれる“禅宗”の本質(現実には矛盾もある)は、“無差別、無区別”であり、優劣という差別を止揚させることを第一としています。ですから、本質的には妻と妻以外、息子や娘とそれ以外が自然に生まれ、必然的に序列や差別を生むような関係を否定しています(現在は蔑ろになっている)。
私なり、活人禅会の考え方は『来る者は拒まず去る者は追わず』という言葉で表わしているように、生命は勿論のこと森羅万象の全ては“皆、仲間”であり、“平等”というファンダメンタルの上に、行為(好意ではない)が生れ、『一人が皆の為に、皆が一人の為に』、一人一人は『無対立・無犠牲・自主独立』を信条として生きてゆこうとしています。勿論、それは完全ではなく、知らず知らずに罪を犯していることがあるが故に懺悔がある施餓鬼があるのだ。それらを実現してゆくためには融通無碍、臨機応変、工夫、智慧などなどを磨き上げている。騙されても、脅されても泰然自若、悠然として凛と立って意図的な反撃などせず、わが道を行ける無心の己の確立を目指している。
『相互支援』の倫理(理想)の世界、『弱肉強食』の幻想(現実)社会。何れに組して生きるかは自由だが、それを止揚した『万法帰一(→一切皆空)』という本質の世界に住み替えても良いのではないだろうか。
夫婦だとか、友達だとか、敵味方などの二項対立を乗り越え、“人間”として“森羅万象の一現象”として、縁に随い、一瞬一瞬を永遠の不可分として大事にして生きる。一日を一生として生きる。“今”の流れに全力で取組む。結果は自然と成る。そうは考えられないだろうか。
私は、一面では経営戦略のコンサルタントでもある。戦略論を駆使して企業を勝ち組に導くというコンサル会社の代表でもある。一見すると、個人の生き方と会社の在り方が“矛盾”しているように思われることもある。しかし、私の中では“無矛盾”なのである。それは『人を観て法を説き、出来るだけ早く“竿の先”“川の手前”までお連れし、望めば“川を渡し”、望めば“竿先から戻す”ことを手伝っているという認識にあるからです。蛇足であるが、それもそろそろ潮時かもしれない。
教訓:『一切の執着、拘り、偏見を捨て、皆んな仲良く、ニコニコと生きよう』
慧智(050321)

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2005年03月19日

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは、強く、優しく、しなやかに、淡々と生きる事』№704

時々、「禅を学んでいます」、という人に会います。結構なことだとは思いますが、それは「調理を学んでいます」と似たところがあります。料理は、“食べること”の手段であり、『作って食べる』という元来“一体”、紙の裏表を、無理やりに2枚の紙に剥離したようなものです。調理を学んでも腹は満たされません。同時に、禅を学んでも心は満たされません。仮に“調理”を利他、“食べる事”を自利と考えたらどうだろう。人間、レシピを読んで学んでも“腹”は膨れない。同時に“採集”により食べるだけでは栄養が偏るし、毒キノコを食べてしまう事があるかもしれない。しばしば、食道楽は舌が肥える、料理人は食べる事を楽しめない、と言われる。
『禅』は、日常生活における『料理と食事』のようなもの。少し突っ込めば『素材を手に入れ、調理し、美味しく食べて、後片付けをする』、その内に“器”を作り、箸を削り、畑仕事をして、漬物をつくるようなもの。つまり、『行住坐臥』、“生活そのもの”なのです。それが転じて“医食同源”、“日常を楽しむ(日々是好日)”、無事是貴人・・・・となるのです。言い換えれば『強く・優しく・しなやかに、淡々と生きてる事』であり、それを実現している人が『活人』、そこへ向う道を『活人道』、それらの全体を『活人禅』と思っています。『無』だとか『空』とかいう言葉を理解することと、“それ”を生きている事とは少し違います。解らなくても“それ”を生きている、そして“それ”に感謝し、“それ”を虐めない事がだいじなのです。『無』は、単純に“無い”ということではなく『定まった形が無い・力が存在する(機能はある)』、水や空気、雲、森羅万象・・・全てが“無”、『空』は、単純に“カラっぽ”ではなく、『異なる“力”が相互に浸透し、全てが過不足なく調和している状態』、素粒子の世界、宇宙全体、ミクローマクロ、連想は何でも結構。最大のミクロを人間・最小のマクロを人間と捉え、無限の調和点を生命と考えてもよい。まあ、頭ではなかなか解らないし、言葉での解説には限界がある。しかし、“坐禅”は全てを感じ取れる。それを知って生きる人間と知らないで生きる人間には、天動説と地動説の違いを知って居るか知らないで居るかの差ができる。勿論、普通に暮している(限定合理性の世界)では大きくは困らないかもしれないが、・・・・。まあ、坐りましょう。
 今日から禅会です。来て下さい。
慧智(050319)

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2005年03月17日

野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは・・・・“呼吸”のようなもの。』№703

『趙州洗鉢』という、所謂“禅語”があるのを知っている人は少なくないだろう。しばしば、茶室に床の間に下がっている“あれ”だ。出処は、「無門関・第七」の公案。
ある時、一人の僧が趙州に「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい」問うた。すると、趙州は「朝ご飯は食べたか」と返し、「はい、食べました。」と僧は答えた。すると、趙州は「それでは持鉢(じはつ)を洗っておきなさい」と言った。そして、僧は心眼を開いた。・・・難解。 
  無門関・第一則“趙州狗子”で出てきた趙州(じょうしゅう)和尚は中国唐代の後期、禅宗の大和尚で、「唇皮上に光を放つ」と言われたほどの人物です。一喝する祖師もあれば、棒を振るう祖師もあり、また一指を立てる祖師もあり、なかなかユニークな時代ですが、趙州大和尚は、精妙な言句に鋭い機鋒を現した、現代禅風の祖と言われています。この公案は、表面的な会話は小学生でも分かるものですが、真意となるとなかなか難しいし、それを生涯の態度で示すとなると、『小学生でも解るが大人でも出来ない』というものだろう。
そもそもこの僧は、新参者と自ら名のっていますが、僧堂に入ったのは新参であっても、禅修業においては新参者ではない。本当の新参者がこの程度の2、3の会話で悟れるなら、私ですら10年で悟り切っただろう。しかし、そんな甘いものではない。六祖・慧能の頓悟(修行の段階を経ずに一挙に悟りが開けること )にしても、“下地”はあったはず。
 さて、横道から戻ろう。公案で趙州和尚は、「朝ご飯は食べたか」と、聞き返しました。そもそも弟子が、「師よ、どうか指示をお与え下さい」と言っているのにである。何故、趙州和尚は“朝飯の事”を聞いたのだろう。
そして、この僧は、何故、悟れたのだろう。・・・“何故”と言われて考えるようじゃ未熟。
趙州和尚の真意は以心伝心で受け止め、教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏が一瞬にして浸透しただろうが、「何故か」。
それは、日常的動作の中に“全て”が過不足なくあるが、ある特殊なタイミングでしたそれを体験できないということです。『啐啄同時』という禅語もあるでしょう。“悟り”とは、何も、“特別な所”の“特別な事”ではなく、当たり前の日常の全てに浸透し投影している真理を気付くことで、“一瞬”にして世界観が変る機の出来事なのです。簡単に言えば、「それまでの“苦”だと思っていたことが、それこそが“楽”だというように人生が180度変わることなのです。
己の行住坐臥が、そのまま“仏の営み”であるというのが“禅の極意”なんです。
子供でも解かるが、大人でも容易には出来ないのが『禅』だと覚えておきましょう。
故に“修行は一生”、『一日一生』なんです。
慧智(050317)

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野狐禅和尚の独り言『所有権・経営権・就労権・収税権・・・』№702

 巷では「会社は誰のものか」という議論がある。この疑問は極めてナンセンスで、法律行為を文学用語で説明を求めることが可笑しい。其の上、この世界が相互補完を前提としている以上、それぞれの強味を活かす事が大事。
 「会社は誰のものか」は、株式所有者の所有物であることは明白。しかし、株式所有者は、自らの資産である株式の価値を上げさせるために、ふさわしい経営者(取締役)を選んで、企業組織の経営権を付託し、経営者は善管義務を背景に労働者を給与で雇用し精勤を要求できる。そこに感情が入り込む余地はない。
つまり、其々の陣営(特別決議権株式所有者・取締役会代表・労働組合長)には、対立か融和かしかの選択肢しかない。
今日の世情は、利己主義者(資本主義者)・社会主義者(会社主義者)・共産主義者(労働者主義)にリンチ主義者(マスコミ)が参入し、事勿れ主義者(国民)、国家主義者(収税主義者)の前で、それぞれの利権を争っている『茶番劇』なのです。ここで戦争主義者や警察主義者が登場してこないのが薄気味悪いが・・・
今、私たちが根本的に考えなければならないのは、人類の平和共存であり、地球の延命に有効かどうかであり、このような世情を子供達に正しく説明する“教育問題”である。今のままの教育体系は“拝金主義”が大量生産されてゆくだけなのだ。
私一人が何を騒いでも、帝国主義(アメリカ合衆国)が地球の一国支配を実現させるために仕組まれた今日の殆どの対立構造を壊すことは出来ないし、“狼少年”にされて意見そのものを抹殺させるかもしれない。
それであっても私はかまわない。生命と地球は共存以外に選択肢は無く、男だ女だ、資本家だ労働者、ニューエコノミーだオールドエコノミーだとか言っている場合ではない現実を、未来を担う子供達に如何に伝えてゆくかを私なりに考えて行動してゆく。
目指すべきは、『無対立・無犠牲・自主独立』の世界建設であり、安心と安全、豊かな心が最優先される社会の建設で、金や物、犯罪と利己主義に塗れた現状の打開だろう。
慧智(050317)
★★★週末は、活人禅会です。まだ間に合います。★★★

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2005年03月16日

野狐禅和尚の応え『質問:神様は存在するのですか、人間は皆、死ねば仏様になるんですか?』№701

都内の少しだけ辛そうな高校2年生から、上記のような質問を受けましたので、応えたいと思います。
冒頭で言って置きますが、この質問には、その人の立場により60億通りの答えがあるはずです。もし、答えが一つで、それが“普遍的な事実”を示すとすれば、この世には戦争も無ければ、犯罪も無いと思います。
◆そこで、先ず「存在」という意味を考えましょう。
 一般論として「存在」は物理的に在る、という意味で、イメージ(心の中に浮かぶ像)をあらわすことはありません。身近な例ですが、自動車とドライブを考えて見ましょう。自動車は『物』で、ドライブは『事』ですね。世の中にはいろいろな価値観があります。自動車を所有することがドライブに行くより大事という人もいれば、所有なんかしなくてもドライブに行く時だけレンタカーを借りれば良いという人がいます。もし、神様が車のように「物」として存在するなら、何らかの方法で具体的に証明することが出来るでしょう。もしドライブのような経験的な「事」であれば、自然や実在した人間から、心で想像し、心の中の存在として創造することが出来ます。そして心の中に創造したイメージは認知的不協和というメカニズムで、一度信じたことはどんどん強化され、幻影を見ることも自然になります。もちろん事実はひとつですが、真実(事実を心が解釈した内容)は、人間の数だけあると言っても過言ではありません。論理的でなく想像力が乏しい人は、他人に影響を受けやすい人は、自分より強い人、知識のある人、社会的に人気がある人などなどに影響を受け、そのイメージが転化し、あたかも自分の考えや自分の経験のように考えるものです。勿論、それが全面的に悪いということはありません。実際、そのメカニズムを利用したのが「教育」であり、道徳なのですかか。そして、その結果、形や形式になり、後世に残って行くものが芸術や文化というものです。
◆要約しますと、神様は存在すると思う人には存在し、存在しないと考える人には存在しません。
 次に、仏様に関してです。仏様は「仏陀」に対して尊敬を込めた呼称である場合や亡くなった方のその後の呼称であったり、これもまた一人一人の解釈が異なります。一般に「神様は外なる絶対者、仏様は内なる絶対者」と言われたりします。それは、私たちが死んでしまうと「神様の元に行く、仏様になる」という言い方に投影されているように、体が滅びて残るものはなく、神様の所に行ったというイメージとして残された方の心の中に存在し、悲しみを仏様になったということで整理し、心の中に記憶を存在させます。
 つまり、神様でも仏様でも創り主でも、どんな名前、どんな概念でも、全ては「心」の問題なのです。少々科学的な考察を加えれば、素粒子という存在の基本物質は、物というよりは「力」といった方が合理的なのですが、それが沢山集まると「硬くで重い」つまり具体的に感じることが出来る質量を持つ物質(存在)に見えるし、疑いようの無い実体験をもたらします。しかし、それらをトコトン細かく割ってゆくと、そこには「物」ではなく「力」、現在は4つの異なる性格の関係力、5つの現象、6つの塊単位になります。ところが、それは宇宙の歴史と科学的な定説となっている150億年という歴史の範囲で考えられる限定的な合理性で、絶対的と言い切れるかどうかは解りません。つまり、人類は未だ無知と言っても過言ではありません。
 少し飛躍しますが、仏様は全ての人の心の中に現象しているのですが、それに気付かない人には存在しないのです。
 説明が長くなり、言葉だけでは十分に伝えられないことは十分に解っています。それを仏教では「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」といい、コミュニケーション能力と意思伝達能力に対する言い訳のように聞こえるでしょうが、『真理』を伝えるのは大変に難しいことなのです。ですから、一人一人が先入観を捨てるために坐禅を行い心を自由にして感じ取るしかないのです。面白いことにキリスト教は文学的だし、仏教は科学的なんですが、先ずは頭で学ぼう(≒知りたい)ならば、キリストの夢と釈迦の現実を定規にして世界を見ることを薦めます。そして、先ずは、自分自身で自分の考えを持ち、それに固執することなく、その心を実践してみましょう。その実践を通じて、貴方なりの真理を形成できるでしょう。繰り返しになりますが、だからと言って、『私を信じない者は地獄へ行く』などという恐ろしい嘘だけはつかないように。自分が正しい思い込むと、それに拘り、囚われ、偏ると、『対立』が起り、困った世界になるものです。
●究極の答え:あなたの信じることが『真実』です。この問題に『事実』は存在しません。
あなたは此の世に欠くべからざる素晴らしい人間です。そして、この世界に一人しかいない素晴らしい高校生です。今も、あなたの心は、恰も純金のように光り輝いているでしょう。ですから、何があろうと、それを決して曇らさないでくださいね。僕は、いつでも貴方の味方です。
『火に入るも真金の色転た鮮かなり』と云います。『真の実力とは、逆境にあって明らかになる力』です。本当の黄金というものは、火に焼けてもまったく色が変わらないように、人の真価というものも、災難にあったとき、逆境に陥ったときに明らかになるものです。今、迷いがあるのは自然です。世の中が悪すぎます。多分、あなたが、神仏を考えるには、それなりの理由があるでしょう。この次のメールでは、より具体的な話をしてくれるか、さもなければ、坐禅に来なさい。時間がある限り、付き合いますよ。
慧智(050316)

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野狐禅和尚の辻説法『法律・道徳・倫理・宗教』№700

昨今、合法か違法かなどという低レベルの論争が、企業買収に纏わって立法・司法・行政の各府から経済三団体で盛んに議論されている。私も“その”幾つかの会で発言するチャンスがあり、話すべきことは話しているが、彼らの理解はかなり異なる。特に、その代表者の宗教による違いはハッキリしている。誰が如何なる宗教かは差し控えるが、経済三団体の代表は、キリスト教徒、神道、念仏系仏教であり、それぞれが競争賛美、権力賛美、規模賛美思想をその言葉の端端に伺える。勿論“無信仰者(利己主義)”である話題の主よりは、確固たる信念(価値基準)が公開されているほうがフェアーであることは事実ではあるが、 おおむね“排他主義”であることは悲しい現実である。
 法治国家である以上『遵法(コンプライアンス)』は当然であるが、法律は“時代(文明度・文化度)”という変数に大きく影響を受けるので、たえず“不完全”であるから、法律の上位概念である“道徳”の視点から“法律の精神”を受け止め、合法であれば全て善しと考えることは差し控えたい。
次に、“道徳”は国家的な価値感を変数としているので、“その国家”の最高権力者の人格を変数として不安定となる。つまり、日本を例に言えば首相の人格が道徳の普及度に大きく影響する。そこで道徳は、その原理である“倫理”に精通していなければ語れないし、日々の率先垂範が出来なくなる。言い換えれば『修身斎家治国平天下』であり国会議員が国民の模範でなければ天下が落ち着く訳がない。そして、“倫理(道徳の原理)”の背景には“宗教(倫理の原理)”があり、簡単に言えば、如何なる宗教でも構わないが、宗教を持たない者は、倫理、道徳、法律は、生きるための“制約”と捉え、自己の都合で“合法と違法”を使い分ける法律論者は本物の『無道徳者』となる。そして、道徳(商業道徳などを含む)を振り回す者は、倫理観が怪しく、倫理を謳い上げる者は、宗教に関する無智が露呈する。
 私達、地球上の存在である生命+森羅万象は、相互補完、相互支援で存在が可能となる“現象”であり、『互恵』を無視することは犯罪である。また、人間であるなら『競争』を無くし『弱肉強食』の生存原理から、抜け出す努力こそ、法律・道徳・倫理・宗教の共通概念のはずである。
 今日、世界は『法律・道徳・倫理・宗教』を止揚した新しい概念を必要としている様に思う。そして、それが“禅”の思想にかなり近いのではないかとも考えている。しかし、“それ”が何か、と話す時期ではないだろう。少なくとも、今後50年以内に本物の“世界規準”が出来ない限り、50億年続いてきた地球の調和は大きく崩れるだろう。地球の寿命は100億年であり、これまで50億年を経た。そろそろ地球も“おとな”にならなくてはならないのだ。
 なお、今、生きている者は、少なくとも“今日”を大事にしておかなければならない。そこで、今直ぐ誰でも出来る“無対立・無犠牲・自主独立”だけは守りたい。競争は止めようではないか。勝組・負組をつくるのはよそうではないか。相互補完とならない一方的依存は止めよう。
・・・・願わくば我等と衆生と皆共に仏道を成せんことを・・・・
慧智(050316)

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野狐禅和尚の辻説法『無対立・無犠牲・自主独立』№699

 対立関係を数字で見てみよう。“3と6”という関係には最大公約数は3、最小公倍数は6という関係がある。“2と4"も同じ,ように2と4だろう。つまり“どちらか”に合わすことができてしまうか、合わさざるを得ない。言い換えれば、“あちら”を立てれば、“こちら”は立たない。では、3と5という関係ではどうだろう。最小公倍数15が存在するが、最大公約数は1という以外に無い。また、2と3のような関係には最小公倍数6が存在するが、最大公約数は1以外に存在しない。
 ここで、数字を“己”と相対する“他”に置き換え、“止揚”という概念を考えてみよう。また、“万法帰一”を考えてみよう。そして“相対関係”とは何かを考えてみよう。
そこには、『無対立・無犠牲・自主独立』を理解する秘密が隠されているのだ。
慧智(050316)

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2005年03月15日

野狐禅和尚の再びお応えします『質問:禅とヨガ、坐禅と瞑想の違いを教えてください』№698

 今日も亦、質問にお応えしようと思います。『禅』と『坐禅』についてはしばしばお話していますので一言で纏めてしまえば、『坐禅は、現実を逃避したり、夢に逃げ込んだりせず、また功徳や利益といった下心を持たず、現存した智慧者である釈尊や達磨大和尚ほかの先達の悟りを“追体験”して心身を解脱し真理(仏の境地)に到達する方法であり目的です。
 一方、『ヨガ』は『ユガ・スートラ』を根本経典とした有神論の宗教的行為であり、瞑想によりヨガの神(霊魂を最高神)と一体化して超自然的な力を得ようとする方法で、その要諦は、呼吸を調え、目を閉じることにより現実の誘惑を避け、両手を広げて神を受け入れて心身の健康を増進させるのが目的です。
ご注意:小生は、ヨガに関する体験は皆無といっても過言ではなく『禅』の側からの視点でお応えしていますので、違いを知りたければ体験をして頂ければ幸いです。何事も先入観を持たず、“先ずは体験”でしょう。
慧智(050315)

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野狐禅和尚のお応えします『質問:禅とデリバティブの関係についての見解はお持ちですか?』№697

昨日の早朝、過激な回答になり易い質問を頂きましたが、“全てに応える”のが禅僧の使命である以上、お応えします。
◆先ず、『デリバティブ』に関する基本知識
 ある商品や資産の価格、金利等に関連した“特定の指標”に依存して“時価”が決定される商品のことを『デリバティブ』と云います。デリバティブ商品は、農産物、金属といった実質資産から短期金融商品、債権、株式、通貨など広範な金融資産です。
 何故、デリバティブ商品ができるかと言うと、企業(人)は不確実性を嫌うからであり、将来の不安(リスク)である市場経済の特徴である将来(実際の取引時点)の受給バランスによる価格変動がおこるからです。その結果、リスクによって企業は、将来大損害を出す可能性と大儲けする可能性があり、それが予算・実績に大きな影響を与えるからです。
 つまり、『諸行無常』に対する抵抗を『デリバティブ』と言い、その背景には無智な人間の悪癖である“競争(勝者の為に敗者を必要とする文化)”があるので、森羅万象の全てがデリバティブ商品に成りうるし、損得に関わる関係者の数を増やすことで“虚業”を作り上げる効果がありますし、リスクを分散する効果はありますが、人類や地球のリスクを消滅することはできません。言い換えれば『知足(足るを知る)』ことの無い“博打打ち思想(他人の損を得とする輩の考え)”がある限り、“餌”となる弱者が存在しますが、カニバリズム(共食い)の正当化の成果が“デリバティブ”とも言えます。
『一日不作一日不食』ましてや『諸行無常 諸法無我 諸法実相』という真理が少しでも理解できれば、『不幸の婆抜き』が此の世から失せるのですがね・・・。自分の神様が一人で“100%”正しいという思い込みがある限り、此の世に幸・不幸の種はなくならず、地球の崩壊はどんどん早まるだけなのです。残念!!!。
仏教経済学者?の慧智(050315)

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2005年03月13日

野狐禅和尚の思い『南伊豆の“菜根譚”について』№696

 昨日、経営や思想、商品開発、組織そして禅など、物ではなく“事”に関する議論が銀座の「おでん屋」であった。その際、南伊豆の無対立・無犠牲・自主独立を基本理念とする村『菜根譚(禅的生活空間と言っても過言ではない)』の参加資格に質問があったので、私一人が決めることは出来ないが、以下の私見を述べておきたい。
さて、人間、出来る事ならば“平和(対立関係(争い)の無い共存状態である協奏主義者)”で暮していたいと考えるの人が圧倒的に多いのは誰しも認めることだろう。と同時に、権力の座に君臨し、大衆に対して優位な立場であろうとする者(例えば、拝金主義者や権力志向の“競争賛美”の競争主義)が存在することも確認できるだろう。一般的に、前者は防衛的(内向的)で、後者は攻撃的(外向的)と見るのが標準である。となるところから、当然、前者は数が多くとも“声”は小さく、後者は数が少なくとも“声は大きいので、結果的には“二項対立”“二分された価値感”と写りがちである。しかし、確認しなければならないのは、“競争主義”は勝者と敗者という二律背反の価値観を醸成する二項対立文化へ向う流れであり、一神教を前提とする“神様争奪戦”に参戦している者たちの考え方なのです。そしてそれは、心身二元論を展開し、『魂』と『肉体』を分けて考える思考体系を確立し、前世や生まれ変わりを提言し、直接的因果論(科学的思考)とのステレオタイプの実現に流れ、最終的には『労働は懲役であり、前生に善行を積んだ家計は“貴族や支配階級”となる』とい論理展開をしています。
一方、60億という人類の7割以上の多神教(日本を含む)は、禅に近い論法である『勝ち負けのない平和生活』を希求し、『労働は美徳』という生活価値を体系化しています。しかし、情報のスピード化(デジタル化)、国際化、無智化(本質を軽視すること)という現代文明は、中庸や中間という概念を理解する能力を退化させ、全てを二律背反で考えようとする“不完全な排他的非重複的分割思考”で社会を汚染し、善人か悪人か、勝ちか負けか、正しいか誤りか・・・という稚拙な判断基準が広まっている。しかし、前出したように“それら”は『少数大声』の意見でありながら、権力と財力を最大の価値とする彼らは、“和を以て貴とし”とする圧倒的多数の声無き声を忙殺していることを理解しておかなければなりません。
 以上の意見に対し、仮に、決定的な異論反論が無く、せめて菜根譚の中では『勝ち負けを作らず、助け合い、創意工夫を以て質実剛健に暮らす』ことが約束できる者が参加の大前提になります。それ以外は、全てこれからの話し合いで決めれば良いのです。
 繰り返しますが、生き馬の目を抜き、負け組みを作って勝ち組が闊歩するような殺伐とした権力競争賛美社会より、一人一人の個性を活かして自由が尊重され、助け合って相乗効果を実現できる社会を“善し”とする方々の“ストレスマネージメント空間”であり、イザという時のシェルターであり、微笑を忘れそうになった時、アイデアが欲しい時に、情報断食ができ自問自答できる空間を求めて居る方の“村”にしたいものです。
慧智(050313)

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2005年03月12日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)』№695

十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)段階について。
頌曰
■鞭策時時不離身
■恐伊縦歩入埃塵
■相将牧得純和也
■羈鎖無拘自逐人
(図版はHPのTOPの下から“十牛図”を見てください。ここが菩薩道の五合目)
◆鞭策時時不離身
読:鞭策(べんさく)時々(じじ)身を離れず。
意味:(牧牛は掴えたておくのに血みどろの努力をしたのであるから)、鞭、綱は片時も自分の身から離さないようする。
◆恐伊縦歩入埃塵
読:恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に入らんことを。
意味:(さもないと、)あの牛はきっと勝手に行きたいところへ飛んでいって、塵埃が一杯ある分別の世界に入ってしまう。(つまり、欲求充足、快楽追及の俗世間と悟の世界の魅力との板ばさみにsるだろう。)
◆相将牧得純和也
読:相(あい)将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんな)せり。
意味:本当に真剣になって、飼い馴らしていくと、心が段々と柔らかくなって純粋になってくる。(坐禅をして見性が許され、己の主人が己であることに得心が行くと、何となく偉くなったような気になり、知らず知らずに放漫になることがあるので、坐って坐って坐り抜くことが大事で、自分を自分が飼い馴らせれば、心も顔も柔和になり、言葉使いもソフトになってくる。
◆羈鎖無拘自逐人
読:羈鎖(きさ) 拘(こう)すること無きも自(おのず)から人を逐(お)う。
意味:(段々牛が落ち着いてくると、)羈鎖(手綱や鎖)をつけておかなくても、自然にその牛は己についてくるようになる。(行住坐臥の悟りが生き、本来の牛(己)を見失うことが無い様になる)

解釈:『牧牛』のレベルになれば、本来の己である牛を手に入れてはいるが、そこで安心せず必死になってそれを馴らし、己のものにしていく大切です。
心には実体がなく、時に応じた現象であると同時に宇宙万物、森羅万象もまた、実は実体ではなく現象であるという『空観』に得心が得られる。しかし、まだまだ、観念・妄想の根は残っているので、目が出てくるので、それを自分で積むことになる。ところが、悟りを体得していると同時に、邪心の状態も知っているので、かえって“悟り”の素晴らしさに呑まれ、悟りの体験を鼻にかける思いに陥入ることがあるので、厳に戒めておかなければならない。まあ、『禅』の素晴らしさ、『禅』のレベルの高さを吹聴し、やたらと人の指導をしたがるような弊に陥入るので注意すること。また、次から次へと湧き出てくる想念・分別の本質が本来カラッポであって実体が無いことを十分に理解し体得しているだろうが、それに執着してしまう程度のレベルなのです。私たちの日常は常に主観・客観の二項対立でみるのが簡単なので、「有る・無い」という対立観念に陥り易い。真理は、有ることは無いことであり、無い事はあることであるように、『有ることと無い事が調和して現象している万法が一に帰すのです。『牧牛』という段階は、実はとても苦しいが、それが己の弱さを再確認するには良い機会になる。この段階を過ぎれば、人に対しては極めて寛容的になれ、時盗人(時間を守らない者)や泥棒や詐欺師にすら、哀れみをかけられるようになり、穏やかな人生の入口にあることが実感できるだろう。(本当です)
慧智(050312)

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2005年03月11日

野狐禅和尚のお応えします『質問:ベンチャー企業の成功の条件は?』№694

一般的に“ベンチャー”という定義はビジネスモデルをコアコンピタンスとするニューエコノミーで、製品・商品・チャンネルをコアコンピタンスとするオールドエコノミーに対峙するビジネスと理解しますが、Yさんが、ベンチャーをどのように定義しているかで応えは変わってくるでしょう。しかし、どんなビジネスであれ、“企業の成功”の条件は、「考える力」と「伝える力」そして「素早く動く力」だと考えていますし、それは、時代が変わっても変わらないと考えています。
なお、それを少しだけ詳しく言えば、次のようになるでしょう。
■顧客・商品のフォーカスが明確であること
 ベンチャー企業成功の条件の一つは、「誰」に対して「どんな価値」を提供するかが明確になっていることです。顧客が絞れているか、商品の機能が絞れているか、いわゆる“フォーカッシング”が明確になっていることである。逆に言えば、失敗の可能性が大きいのは、何とはなく多種多様な顧客に多種多様な機能・価値を提供することであり、前線を拡大しすぎて、少ない資本を効果的に使えない企業です。
■商品(ビジネスモデル)の価値を持続できること
 ベンチャー企業の生命線である「商品(特にビジネスモデル)」の価値を長続きさせられる社内リソースに強みを持っているかどうかです。新商品や新サービスの多くは、何らかの“新技術”を含んでおり、特定の領域に“強み”は持っているでしょうが、問題は“それ”が長続きするかどうかです。商品というよりビジネスモデルと言った方が良いでしょうが、一つの商品が長続きはしなくても、次々と連続的にヒットを続けられるなら別ですが、それはかなり苦しいことでしょう。つまり“日保ち”の良さが要求されるのですから、商品というよりビジネスモデルと言った方が良いでしょう。言い換えればベンチャーに必要な“強味”とは“それ”だと言っても過言ではありません。
■マーケティング力の強さ
 “マーケティング力”という理解され難い。例えば、「一流の技術力(製品)」と「二流のマーケティング力(商品)」の会社と、「一流のマーケティング力(商品)」と「二流の技術力(製品)」の会社では、「一流のマーケティング力(商品力)」の会社の方が圧倒的に強いのです。つまり、マーケティング力に優れている組織は、社員の内で、たった一人の経営者さえ“まとも”であれば、自社の持つ強みを最大限に発揮できる。つまり、"戦略”が実行できるというわけである。何故なら、技術力は外部から調達できるチャンネルでも商品でも外部を利用できるのです。しかし、多くの場合、経営者やマーケティング担当幹部だけは、簡単には得られません。現代はビジネスモデルの時代であり、経営者のリーダーシップ、マーケティング力、そしてマネージメント力が成功の3つの肝の時代と言っても過言ではないでしょう。
■持論:経営は"統合芸術”である
 ベンチャー企業と、これまでの企業に特別な違いはないと思います。『経営力とマーケティング力』は、何も新しい概念ではないのです。問題は、"猿真似”ではなく「自ら考える力(自前の智慧)」の活用です。“自ら考える力”は、有史以来、常に“富の源泉”であり、現象から本質へ、そして本質から“新たな現象”へ、という思考の流れが創られ、結果的に強い“目的意識”と人生哲学が生まれるのです。それが昇華すると、断片的な知識は統合・止揚され、経営哲学、企業理念、商品哲学が誕生します。しかし、それは必ずしも“絶対的に正しい”とは限らないので、絶えず自問自答する必要があり、それは極めて孤独な作業となるでしょう。そんなところから、事業の成功者の多くは“坐禅”をしているのです。まあ、以上を纏めれば、経営力×マーケティング力×哲学=ベンチャー成功の秘訣でしょう。それは正に“科学”というようり“芸術”でしょう。
慧智(050311)

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2005年03月10日

野狐禅和尚の辻説法『拈華微笑(ねんげみしょう)』№693

 釈尊が晩年、一言も発せずに一輪の“金波羅華(ロータス)”を大衆の前に示した時、 弟子達の大半が、釈尊が伝えんとする意味を掴めず、摩訶迦葉(迦葉尊者)ただ一人が“にっこり”と微笑んで、肯いた光景を移した言葉で、真理は言葉だけでは伝えられない、という意味を担った四文字です。そして、微笑んだ迦葉尊者と大衆に対して釈尊は「我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、摩訶迦葉に附嘱す」と言われた、と伝わっています。それを受け達磨大和尚は「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」という禅の根本思想となる“四聖句”を唱えたとされています。
 つまり、“悟り”の境地とは、文字・言葉(経典の内容を絶したところ)に伝えるべき深遠なもの、言い換えれば“行住坐臥の統合”により、師から弟子に“以心伝心”されるものだということを意味しています。言い換えると、公案にして然り、師と弟子は阿吽の呼吸で結ばれてこそ、以心伝心が可能になるのです。しかし、それはテレパシーだとか、集合的無意識とかいう非科学的なものではなく、“教育”による成果であることを付け加えておきます。そして、教育とは“経営(営みを経て目的目標を達成させる行為)”であり、“経営”とは教育であることも付け加えておきます。
教訓:禅とは完成された教育体系である。
慧智(050310)

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野狐禅和尚のお応えします『質問:会社勤めをしながら菩薩になることは可能ですか?』№692

 “菩薩”になりたい、と思っただけで、菩薩山の五合目。“坐禅”を始めれば7合目。
日々、利他を心がければ8合目。それが実現できていれば9合目。それらが日常の自然体となれば、正に、貴方は『菩薩』なのです。言い換えれば、“発心”すれば『菩薩ジュニア』であるのが私達です。
大乗仏教は『菩薩道』であり、元来、菩薩道は在家仏教です。在家のままで家庭を持ち、仕事を持ち、社会生活の中で分け隔てなく助け合いながら暮してゆくのが菩薩道の本願です。ですから、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などなど、地獄餓鬼蓄生などの苦悩を救う六道能化の菩薩といわれる地蔵菩薩を除いては、どの菩薩さんも髪の毛を長くし、首飾りや腕輪、イヤリングをしています。それが在家の証拠です。
 菩薩道は、上求菩提下化衆生、上を向いては仏の智慧を学び、下を向いては人類に奉仕することです。
 仏の智慧、即ち釈尊が自覚した『一切衆生悉く皆具有す』という仏心は『大智と大悲』が表裏一体となった不可同不可分の心の状態で、今風に言えば『智慧と慈悲』の二面が一枚であるということです。繰り返しますが、『上求菩提』は“仏の智慧”を求めて修行する事。『下化衆生』は仏の慈悲を実践してゆく事です。ですから、悟りを開くということは同時に実践できているということです。内緒ですが、“そこ”が『公案』の肝です。
言い換えると、私のように、時には、衣を着て、手巾をしめて、肩に袈裟を掛け、時にはスーツ姿で金儲け指南をしているなど『菩薩』の風上にも置けない“野狐”か“狸”のような者で、ロクな者じゃないんです。しかし、菩薩であろうという心があるから、少しは多めに見てください。そして、菩薩は仏の仲間ですし、心身一如の観点からすれば、“この身”を傷つけたり、病気なるのは厳禁なのです。『癌』になるなど論外なのです。(懺悔します)
 纏めますと、サラリーマンをしながら、公正公平、自利利他(坐禅+ボランティア+仕事)を行い、『人類』全ての苦しみや悩みを救おうという気持を込めて仕事の時は仕事の目標達成に励み、坐禅のときは四句誓願度になりきっていれば、『悟り』なんか開けなくても、其の身が、そのまま菩薩なんです。即ち、それが活人禅会・即心菩薩会でいう『即心菩薩』なんです。だから、我らは皆、菩薩ジュニア=即心菩薩、安心して利他に励もう!!!)
慧智(050310)

投稿者 echi : 06:53 | コメント (0)

2005年03月09日

野狐禅和尚の無分別な辻説法『生命は、部分であり全体である(ホロスとホロンの関係)』№691

地球上の生命は、例外なく同一の起源をもっている。言い換えれば、人間の起源を遡れば、38億年前の原核細胞に至り、更には“物質”に至るのです。即ち、“父母未生以前の本来の面目”は、細胞→分子→原子・・・最終的には“力”に至り、『空(相互補完)』であり『一切皆空』という事実を示します。言い換えれば、生命と物質は不可同不可分の関係にあるのです。
 小中学生の理科の授業で習うように、『0』という概念は『マイナス1とプラス1』を原型とする相互補完から成り立ちます。言い換ええると、ゼロは完全な1でもあるのです。細胞(生命)に注目する、『細胞は完全性と全体性を有する一体』から無限に分化し、統合しながら完全な部分であり全体となります。これが『個』と『人類』そして『森羅万象』の関係です。ですから、地球上の生命は“相互補完”の具現者なのです。
若し、地球の外に生命が存在すれば、その『根』は深くなるだろうが、全てはビックバンという150億年前の得意な『無』から生まれ出たであろうことは合理的なことだろう。言い換えれば、全宇宙の物質・生命も同根でありながら不可同不可分なのである。
故に、唯心論と唯物論も同根ということになるのです。
そして、生命は物質に分解可能であり、生命情報は物質(DNA)により受け継がれるが“物質”を以て“生命”を作り出すことは、人間には出来ず、全て“自然界”に依存している。つまり、有機物は無機物に分解できるが、無機物は“生命”が介在しない限り“有機物”とはならないのである。(但し:定義による)言い換えると、生命は物質化合の単純な結果として生ずることはなく、最初の一つ『一』以外は、生命は生命から生まれるのです。
ですから、生命は相互依存を必然としているのであり、“単独・孤立”では存在し得ないのです。以上が『空』すなわち“相互依存”、“補完”の意味です。
 さて、食卓にある“米一粒”を穴が開くほど見てみよう。確かに表面的には“己の外”の物質である。しかし、口に入れた瞬間に“消化”が始まり、“己”の一部となり、血となり肉となる。そして、一部は排泄され、次なる生命の“力”となる。
■五観の偈
●一つには功の多少を計り彼の来処を量る
“功”とは時代を超越した多くの営みであり、“彼の来処”とは『縁』のことで、“量る”は、どのようにして此処に私に食されるためにやってきたのかを思いましょう、ということですね。つまり、“命”はどのようにしてはぐくまれ、己の命に置き換わっていくのかを理解するのは人の義務ですよ捉えて良いだろう。
●二つには己が徳行の全欠を計って供に応ず
“己の徳行”、つまり戒・律を守り、六波羅蜜を実践を必要とする人間にとっての、今日一日の精進が一歩でも前進したか否かを考え、『一日作さば一日食わず』を思い出して、差し出された供物に食べて良いか自らに問えということですね。
●三つには心を防ぎ過貪等を離るるを宗とす
昨日よりも今日、今日よりも明日、と己の心を澄まし高めるために“今日一日”を費やしたのかどうか、眼前にある“食べ物”が本当に、己の命に“成り代わって頂いく価値があるか“己”にあるか自問自答し、心の安寧を守り、出された食事の好き嫌い、えり好み、食事に対する不平不満を持たず、仏教で厳しく戒めている『貪り、怒り、愚痴(三毒)』にならないことを宗たる教えとせよ、ということ。
●四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
“食”は生きるためにあり、生きていることが感謝と喜びの原点であるように、眼前にある“食べ物”が“今”を生きるための糧であり“五体”を維持するがための“良薬”なのである。つまり、自分の“食欲”を満たすために生命を頂くのではなく、“森羅万象の部分であり全てでもある己”の体を求道の為に維持する“良薬”として頂かくのである。   
●五つには道業の成ぜんが為に当に此の食を受くべし
“道業”とは悟りへ向う修行のこと、あらゆる執着を離れ、素直な己に立ち帰るり、仏性である森羅万象に心を配り、殺生を自覚することの為に、今この食事を頂くべし。つまり、今は未熟であるが、将来必ず帰れるであろう悟りの境地のために、己の命を繋がせていただきます、ということである。

少々こじ付けに聴こえるかもしれないが、『生きる』ことは『活かされる』ことであり、それが己の解放生態系的な位置にある己の部分である己を頂くためには毎回毎回の食事に於いても原点に立ち返り自戒を新たにするのが“修行”であり、『一』へと向う大道を歩む者の義務であり責任なのです。質素倹約、感謝なくして食事をする資格は無いのである。
そして、『一口為断一切悪、二口為修一切善、三口為度諸衆生、皆共成仏道』と続く。
 これが、毎回の食事において150億年を自覚する礼儀なのである。
慧智(050309)ああ、腹減った。でも、今日は働いていないな~。・・・・・。

投稿者 echi : 16:54 | コメント (0)

2005年03月08日

野狐禅和尚のお応えします『質問:上司や経営者にカウンセラーの技術を持たせたいが、どうすれば良いか?』 №690

 最近、注文の多いレストランの如く、小生への質問が多い。実に個人的な内容は質問者のみに返信しているが、より多くの人に知ってもらいたい内容は、ここで応えるように心がけている。しかし、小生は釈尊ではないので、全ての質問に応え切れているかは甚だ疑問ではあるが、質問に対し無心に応えてはいるつもりなので、己の思いを纏める参考にはしてほしい。さて、今日の質問は社員の心の状態を案ずる心優しい経営者からの質問である。「最近、社員の何人かがメニュエル症候群や鬱症状で医者に通っていると聞いたので、部下を持つ社員には「カウンセリング」の勉強をするように指示しようと思うが、どんな勉強をさせれば良いか」というものである。
■この質問に対し、私は『お止めなさい』と申し上げたい。理由は以下の通りである。
◆理由:厚生労働省から心因性の病で休職している労働者は大企業で0,5%、中小企業で0,8%という数字が発表されている。人数で言えば47万人である。これは、健康保険にナイナスインパクト、企業には賃金の過払いが生じ、日本全体では1,5兆円の損害となる。勿論、医療機関は収入となるので、GDPレベルで判断すれば1兆円のマイナスとなる。これらに公衆医学医学の論理を加えて判断すると、心因性の疾患予備軍は500万人となり、労働者の10人に一人は、近い将来には通院する可能性がある。言い換えれば、国家と産業の潜在リスクなのだ。さらに、興味深い数字がある。昨年の自殺者は34427人。分類は、病いによる苦痛を原因とした者は14500人(私もこの数字に入っていたかもしれないが、悔い留まったている)、失業や倒産等の経済的な苦痛を原因とした者が8900人。3万人を超えようになり今回の最高数に達するようになったのは98年の「銀行の貸し渋り」が行われた年からである。「お金があれば死を選ぶことはなかったろうに…」という軽率な風評が流れて、単純な連中は『金が家族より、社員より、況や国家や郷土より大事』ということが強まった。実は金が問題なのではなく『金に依存する弱い心』であり経済問題ではなく『教育問題』なのだ。ところが、近年は経済苦より『心の病』が自殺の原因の主流になっている。何故だろう。だから、上司にはカウンセラーの勉強をさせる、というのも危うく肯いてしまいそうになる。しかし、それは絶対に止めるべきで、企業は『風土改革』を先行すべきだろう。
社員の『健康』は、常識外に過剰でない限り、労働時間や環境の問題ではなく、一人一人の社員の“働き方”の問題である。言い換えれば“やりがい”と“何でも話し合える企業風土”が大事なのである。人間は、それ程“やわ”ではない。1日12時間、300日働いたとしても、心身とも健康でイキイキしている社員は山ほどいる。その秘訣をインタビューした経験があるが、ヒアリングした全ての共通する話もあれば、何組かにグループ分けした方が良い話もあった。勿論、経営者としては、従業員を安全で健康な環境のもとで働かせるという安全配慮義務、健康配慮義務の認識は前提である。社員は“奴隷”ではないし経営者は“君主”ではない。前にも書いたが“経営とは、営みを経て目的・目標を達成させることである。言い換えれば、利害関係人の全てに対し奉仕するのが経営者の役割であり、労働者に甘く、株主にキツイとか、納税をしないとかは経営者失格である。勿論、納税を“誰に委ねるか”は経営者の裁量、戦略判断である。
さて、ここいらで“質問”に対し“反対”を唱えた具体的な理由を述べよう。
先ずは、病人や半病人を作り出す原因を潰しましょう。つまり、『企業組織』の問題として取組むべきで、個人と組織がWIN‐WINの関係構築をしましょう。つまり、個人と組織で目的を共有し、一人一人の目標達成を組織成員全員で助け合える構造と“その価値”を利害関係人の全てに共有させましょう。これは、『従業員満足の高い職場においてはストレス症候群にある患者が少ない』という事実があるからです。言い換えれば、一人一人のストレスマネージメントに配慮した『風土(文化)』を創造することです。
 次に、上司をカウンセラーにしない方が良いという背景には、『利害関係が構造化しているヒエラルキー社会では、上司は部下のカウンセリングは出来ないからである。言いたい事が言えない。上司は上司であるが部下でもあるという階級構造では、上司が部下の心身の健康に気を配るのは当然だが、『心因性の疾患の原因の多くは“上司”だからである。
 ですから、社員のカウンセリングは利害関係に無い“社外”の専門家が宜しい。もちろん、“偽”は困る。本物か偽物かは簡単にチェックできるので覚えておいて欲しい。先ず『社員は、人間は、部下は、上司は・・・』というように個性があり目的・目標が異なる社員を抽象化する専門家は“似非”と考えて間違いない。
少々脱線したが、社員一人一人は、異なる個性があり、其々に強味・弱味がある。言い換えれば、それを活かす仕組みが重要であり、企業が選択枝を用意し、社員に選択権を与えるのがベストだが、社員の多くは自分の強味・弱味に気付いていない場合が多く、先ずは、“それ”を気が付く事が出来るようになる“教育”が必要だろう。人と仕事のベストマッチングは、生甲斐と生産性を向上させ、個人にも組織にも有利に働くのはことを思い出して欲しい。具体的な指示が必要な個性もあれば、目的や目標を与えるが方法については自分で考えたい個性もある。とにかく、組織は個性を殺させて生産性を下げるのではなく、個性を活かして生産性を上げなければ、何れに対する“貢献”も出来ないのだ。小さな会社であれば毎日が教育の機会ではあるが、教育すべき経営者に教育者としての能力が無ければ、欲深な社員の思いのままになる組織が出来上がり、遠く無い将来には崩壊し、最終的に悪は滅びるとしても、その前に善が崩壊する。
最後に付け加えるが、一過性のニュースに対し、流行に乗るような判断をする経営者こそ問題であり、上司をカウンセラーにしようなど言う前に『風土改革』と『経営者自信のレベルアップ』をすべきだろう。理想は『一人が皆の為に、皆が一人の為に働ける補完組織であり、一人一人の個性・能力を活かして採用・教育・配置・評価・処遇し、目を共有し、理念を枠組みとして、全員一丸となれる生産性の高い編成を行ない、利害関係人全ての満足度を上げられる組織』の構築が経営者の仕事だろう。
慧智(050308)

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2005年03月07日

慧智和尚の経済学者的な日本の見方『日本丸が沈没する前に救え』№689

西武の堤さんは逮捕され、事件は小泉さんの母体である自民党森派へと火の粉が飛びそうである。また、国土計画や西武鉄道の危機で、正常債権にしていた銀行が不良債権にせざるを得なくなるかもしれない。つまり、メインバンクである「みずほ銀行」への影響は大きいだろう。まあ、それに比べて「フジテレビ対ライブドア」の実況中継は、野球人気の上を行っているから面白い。
しかし、私に言わせれば“どっちもどっちも”である。経済問題の本質は、幕末に似た「外国船討ち払い令」のような「外資排斥現象」が日本国内に起きたり、“ハゲタカ”が新生銀行の買収で2千億円以上の儲けを出した金への課税問題(勿論、ハゲタカファンドがライブドアの黒幕であるリップルウッドなども含む)、その余波を受けてストックオプションを給与所得とみなす最高裁判決、シティバンク排除、追っ付け始まるリーマンブラザーズ虐め。しかし、そんな世相であっても“ハゲタカファンドの守護者である竹中大臣は、ひとり気を吐き、その弁護と小泉さんの郵政民営化などの弁護に大忙しで、年金だ、北朝鮮だは眼中に無いし、挙句の果ての発言は、『景気は踊り場』と嘘まで言っている。日本のGDPが第三、四半期連続マイナス成長ということは、景気は後退している以外の何ものでもない。しかし、嘘は上塗りしていなければ政権がもたない。竹中大臣の思惑は外資への応援歌を歌い、株式市場にカネを流して株価をつりあげるための資金を市中にバラ撒くこと。しかし、浅はかな経済学者の知能では思惑通りには行かない。竹中氏の自己矛盾の投影が銀行に対する金融庁の検査を厳しくし、貸したくても銀行は貸せず、逆に引き締めている。その上、財政引き締めで、長期金利は上がりだし1,5%は目前。言い換えれば国債価格は下落する。しかし日銀の特権から、日銀の資産評価法は“取得原価法”で時下ではないので、堂々と粉飾決算が出来る。ご存知の通り、日銀が持っている国債は150兆円で価格が1割下がれば15兆円の損が出るので、社会保険だ郵政だ、道路公団などと言って国民の目を他に引き付けようとしても、近い内にそれも出来なくなるだろう。しかし、このような時に政府にには“神風”が吹き、巷は面白ネタでイッパイ。資本金1億円、準備金5兆円の日銀が“10兆円”の増資が正当だという声が大きくなれば、間違いなく『インフレ』を仕組むしかない。人口が減り始めたという事実は年金が破綻することに通じるが、それを誤魔化すには市中に金をばら蒔く『インフレ』しかない。言い換えれば、日本の憲法の精神である“本来あるべき姿”とは180度違う、“浪費家時代”へ国民を誘導するしかない。昨日まではデフレ、明日からはインフレだと狼少年が走り回る。走り回わっているのは“アメリカの傀儡政権である小泉・竹中、そしてKO大学グループの学者だ。『金』は何のために存在するのか。国家経済、国際経済に対する利便性を高めるための手段としてのはず。言い換えれば、国民・人類の幸福の確実性を担保する手段だ。しかし、世界を博打場にして胴元で設けようとする株式会社アメリカは、ごく一部の勝ち組を作るために、多くの負け組を必要としており、日本の入るグループは見えている。だから、私は、『競争の時代』という悪魔の囁きから『協奏の時代』という菩薩の助言を聞くべきだと言いあるっている。利益主義の会社や産業は、諸業無常を知らない。企業25年説は言うまでも無く、物は巷に溢れ、家には不用品の山。土地だって都合の良い所は“ハゲタカの棲家”になっている現在。インフレを仕込んで何に金を使かわそうとするのか。
 私は、今こそ原点に帰り考えるべきと主張し、極論的に言えば『輸入大国から自給自足』へと言いたい。最低限の住まい、食料、そして“生甲斐”となる趣味と“正しい教育”だ。勿論、鎖国をしろなどとは言わない。ブータンを見習えとも言わない。日本に必要なのは“真実を見抜ける眼と行動力”を養う本物の教育を行うことに注力さえすれば良い。それで『無対立・無犠牲・自主独立』の国作りは可能だ。
 欧米の対立は利害相反が原因。パンダの縫い包みを着たタヌキツネの国である中国の騙しは「今年は元を切り上げない」というがドルに連動している元は、ドル安で必然的に下がることは噯にも出さない。中東は宗教戦争と石油の争奪戦で、戦争状態は続くだろう。その上にガメツイ胴元の国アメリカは負債を国連(日本の負担が世界一多い)に押し付けて撤退を始めている。北朝鮮の応援団であるロシアは風見鶏、韓国は民族主義、何をするか解らない。されど、どう騒いでも4~50年で化石燃料は枯渇する。
という状況では“インフレと政権混乱”は必至であり、子供達は元気を無くし、ニートは増大し、年金生活者が潰れる。
そこで、私なりに、近未来の生活スタイルを予想すると、『教育+農業+観光+製造+中古住宅流通』が生残る。
 つまり、『菜根譚』なのだ。“質実剛健・質素倹約、物を大事に使う使い回しを推進する平和主義の国”、それが『日本』へ向うべき方向なのだと思う。言い換えれば、競争より協奏。互恵と個性の尊重が重要なのだ。金や物に幻惑されない心の豊かさを標榜する国なのだ。
今こそ、『禅』思想を世界に叫ぶべきだ。禅寺よ、禅坊主よ、風流な参禅者よ。今こそ、発言し行動しよう。袈裟・衣で抗議しよう。無抵抗主義のデモを見せよう。
新聞を読んで我慢の限界を少しだけ越えて過激になっている慧智(050207)
今夜は朝まで坐るぞ!!!!

投稿者 echi : 16:55 | コメント (0)

野狐禅和尚の辻説法『菜根譚・前集132からの警告』№688

昨日、偶然に出会った釈宗演老師の菜根譚訳本の、偶然に開いたページに、以下の教訓があった。私と宗演老師では経験や生きた時代が異なり、受け取り方に多少の違いはあるものの、皆さんにとって大事な内容だと思うので、2年ぶりに掲載します。
■前集132項
善人未能急親、不宜預揚。
恐来讒譛之奸。
悪人未能軽去、不宜先発。
恐招媒蘗之禍。
◆訓読
善人、未(いま)だ急に親しむこと能(あた)わずば、宜しく預(あらかじ)め揚(あ)ぐべからず。
恐(おそ)らくは讒譛(ぎんしん)の奸(かん)を来(まね)かん。
悪人、未(いま)だ軽(かる)がるしく去ること能(あた)ずば、宜しく先ず発(あば)くべからず。
恐(おそ)らくは媒蘗(ばいけつ)の禍(わざわ)いを招(まね)かん。
●解釈
相手が善人と解っていても、本当に親しくなるまでは、相手を褒め称えてはならない。
さもなければ、それをやっかんで、陰口を使って仲たがいをさせ、利益を得ようとする下衆な輩が現れるだろう。また、相手が悪人と解ったとしても、近付かれた以上は、悪事を働く前に排除してはいけない。それをすると、恨み妬みを買い、悪さ以上に大きな被害を受けるだろう。
つまり、活人は、何事にも時期があり、処し方があることを知って、実行している人間なのだ。
言い換えれば、一寸先に明かりを灯せる心の眼をもった人なのだ。
とは言え、禅では「善を思わず悪をも思わず」と説く。自他一如に二心無し。短期的に騙した騙されたという考えは嫌うし、相手の意見を定数とも変数とも思わず、あるがままに受け止めて、決して無理をせず出来る事はする。そして、自利利他に徹するように教え、何が起ころうと結果は自然に成るので、足るを知るように教える。さて、善悪が分かれる前には、何があったのだろう。実は何もかもカラッポなのだ。善悪は分別。巷では善を行い、悪を為すなというが、その真理は善悪などに囚われず、拘らず、偏らず、無心に淡々と生きよということだ。
慧智(050307)

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野狐禅和尚のお応えします『質問:和尚は“神”を否定するのですか?』 №687

 短いが的を射た質問を受けましたので、私なりの考えを述べます。
■質問:慧智和尚は“神”の存在を否定しているようですが、私は交通事故で3日間の間意識不明でしたが、その間に臨死体験をして、無限の光の中で父なる神に会い、神が居なければ“人間”も自然も存在しないことを知りました。勿論、それまでの私は死に対する恐怖を抱いていた無神論者であり、他の宗教の影響は受けていません。つまり、純粋な意味で神に会ったのです。つまり慧智和尚も“神の作品”の一つなのです。和尚の文章はほぼ毎日読んでいます。同感するところもあれば、間違いだと解るところもあります。特に、和尚の神に対して理解は、完全に誤りです。何故、和尚ともあろうひとが全知全能の『存在である神』を否定しているのですか?」
◆応え:私は“神”の存在を否定していません。ですから、実は質問には応えようがあるいません。しかし、私と貴方で『神』という言葉に与えた定義が違うので、それはお互いに知っておいた方が良いと思い、『否定していない』という回答で十分だとは思いますが、あえて付け加えておきます。
さて、“神”という概念は人間が想像し創造した“内的存在≒ワイルドカードのような内的存在”の最高傑作であり“理想モデル”でもあり、“道徳的”意味では大変な価値があり、人類の成果の一つであるということは『真理』に気付いた私を含めた多くの方々の解釈であります。反面、『唯一』であると主張する個人や団体が、“唯一”なるが故に対立し“唯一の椅子取り争い”をしている状況は、人間の世界にとって大きなマイナスもあります。さて、応える前に、あなたの主張を整理してみましょう。
あなたの質問の背景には『神は“絶対的な一人(唯一)”である。絶対的な一人の存在が全ての物質や生物を作った。人間の肉体と精神は別物であると臨死体験で解った。過去あなたは無信仰者であった。そして私の説法を読んでいてくれる。』
禅が分別(情報や知識による取捨選択)を否定するのはご存知でしょう。勿論、私も同様です。しかし、『井の中の蛙が大海を知らないように、大海の鯨は井の中を知りません』から、井戸のなかの話は井戸の中で通じる話であり、井戸の中にいる限りは『井戸の中での限定合理性』を前提として考えるべきでしょう。また、人間は物理的肉体を構成する宇宙にありふれた物質の集合であり、各要素間で電気的信号により化学反応が連続する有限である時間的存在であり、解釈という幻想を“自我”ないし“事実”としている生活体です。また、物理的と思われる現象世界での“価値(神もその一つ)”は多種多様で、誰一人として、“神”が物理的存在であることを証明した人はいません。禅語に“壷中の日月は長い”という言葉がありますが、物理学上の変化の単位である“物理時間(時計が示す時間)”と心理学的な時間とは相関関係がありません。言い換えれば、一生は一瞬だとも、一生は無限だとも言えます。しかし、“一生”が他者を観察して語ったものでなく“自己の認識”であれば無限です。私達は己の受精(物から命への転換点)の認識もなければ“死”の体験も出来ません(“自分が死んだ”という認識を生物ができません)。禅では“父母未生以前の本来の面目を見よ”というのがそれで、“全てが二つに分かれる以前の姿”なんでしょうと入門の時に問われ、何年も“それ”を見ようと挑戦しますが、結局は“無”であり“空”であることがわかります。ですから、死はいつでも他人事であり、臨死体験とは“死んでいない人の夢、幻であり、神経や内分泌系が一時停止したり暴走したりしている異常な状態”ですので“生”であります。つまり、貴方が出会った“神”は、あなたの“神”なのでしょう。ですから、人生の宝として大事にしてください。と同時に、あなたが自分の神、自分自身を大事に思うように、他人も自分の神や自分を大事にしたいです。言い換えると、“あなたの神”以外にも多くの神が存在しているので宜しいのではないでしょうか。しかし、それらが“唯一”であると言って、それに拘り、囚われ、偏った見解を流布して自己への利益誘導を行なえば“対立”が起こるのです。あなたはあなたの神を信じて生きなさい。そして、他人にもそれを認めなさい。そして、少しづつでよいから『井戸』の外も見てみましょう。過去、何回も書いていますが『釈尊は“発見者”であり、キリストはじめ一神教の中心人物は“発明者”である』というのが私の考えで、物質循環論からすれば釈尊は私の一部であり、私は釈尊の一部ともいえますし、あなたも同様ですし、キリストと釈尊を100%別人とはいえませんね。なお、私の少ない知見からすれば、『万法帰一(全ては相対的現象であり実体は“無(一)”の変形である)・一切皆空(全ては相互依存の現象である)』というのは、科学的な真理であり、全的な真理であります。勿論、“真理”と主張する意見は、無限にあって差し支えありません。しかし、相互に排他的となり対立するのは不幸なことです。大事なのは『無対立(互いに相手を尊重し対立しない)・無犠牲(犠牲にしない・されない)・自主独立(徒党を組んで対立しない)』ではないでしょうか。
ですから、私は貴方の“神”を否定しません。貴方が会ったということ否定しません。あなたには“それ”が内的な事実でしょう。ただし、それが『井戸の中の出来事』であることは認めましょう。そして、“自分の神”を“唯一だ”と“押し付ける”行為は危険なことだと知ってください。『八百万の神々』は仲良くやれるのではないでしょうか。それとも、一国優位、一人優位の独裁が必要ですか?。己の外に仏なし。人間万事塞翁失馬。60億の自由な民。共有する神ごとの文化。・・・。大事なのは“神”がいようと、いまいと、余計な殺生殺戮はせず、全ての存在に畏敬の念を抱いて他への犠牲を極力強いずに“安心”して暮してゆける世界、一人一人の人間が尊重される世界が大事なのではないでしょうか。
蛇足:快慧さん!祝:一級小型船舶免取得
慧智(050307)

投稿者 echi : 05:58 | コメント (0)

2005年03月05日

野狐禅和尚の報告『中年ダッシュ村≒ベテランズビレッジ構想』№686

●日本人の原点、心身自適、互恵の村『南伊豆・菜根譚(さいこんたん)』
平成17年5月から、静岡県賀茂郡南伊豆町の農業生産法人(私が代表)が所有する約18万坪(約60万平方メートル)の土地において、自然と共存しスローライフを目指す人々が集える“一流の田舎”を目指し、『一人が皆のために、皆が一人のために』を合言葉、『菜根譚』を村名に、質実剛健、質素倹約の創村活動を、仲間を募って開始する。
金だ物だと世知辛い世の中であり、一寸先はデフレかインフレか全く読めないし、モラルの低いインテリは“金儲け”に奔走し日本を性悪説の国であるアメリカに売り渡そうとしている現代。理想は“金や物”から独立した『心と事』で繋がる“一流の村”の建設だ。しかし、物から事、金から心へという極論から極論に振れるのは、極論を助長し強化する結果を招くだけで、自然が誘導する“正しい結果”は出ないだろう。
そこで、これから開村する『菜根譚(仮称』では、“出来る限り自然に暮そう”を合言葉に『極論を排除した両忘思想(中庸)』で暮せる環境を整備する。それは、個々に独立しながら、イザとなれば助け合う“相互貢献”が自然に起きる村だ。言い換えれば、必要以上に近付かない必要以上に離れない人間関係が保たれていることであり、多種多様な個々の意見は止揚され上位の概念に統合される文化をもつ村だ。意見が右左に分かれたら右左の両論を包み込んで“上”に統合される文化だ。つまり、男か女かと意見が分かれれば“人間”と読みかえられる文化だろう。有罪か無罪かと分かれれば“罪は補償し人は成長する”ということだろう。
『菜根譚』は、出来る事なら“自給自足”が望ましい。しかし、現実には難しい。となれば、“物々交換”や“結(ゆい)による協働(それぞれの得意を活かして相互に貢献する)”ということになるだろう。そして、誰も偉くない。誰も諂わない。其々が行動責任を担える村だろう。
私が、こんな思いで創村するからといって仙人ではない。現実から逃避することでもない。事実は事実、現実は現実として認識し、謙虚に受け止め、本来の意味で“理”に適った暮らしを実現したいだけだ。電気の無駄使いはしないが蝋燭生活を強要もされない。移動には車を使うが出来る限り歩く。贅沢はしないが赤貧に甘んじない。言い換えれば“創意工夫”が尊重され、活かせる村なのだ。
●『菜根譚』の場所は、伊豆急・下田駅から車で20分ほどの周囲を山に囲まれた盆地状の土地で、進入道路は走雲峡ラインから一本、入口を入れば恰も独立国のような風情がある。
●村民になってもらいたい人は、現在退職準備中の方、退職された方、週末だけでも自然に帰りたい方、都会育ちで田舎の無い家族など、物質文明と拝金主義に違和感のある方で、評論家ではなく、自ら進んで汗を流す率先垂範が出来る人だ。
●現状は、土地と果樹園があるだけ。全ては開村してから建設される。つまり、創村活動にこそ“志”が活きるからだ。言い換えれば、相互貢献の機会はあるが、何のサービスもない。縁があり村で知り合った方々と自由に語らい、アイデアを出し、自ら率先して村創りをしたい。村には週末に帰ってくるも良し。平日に帰ってくるも良し。場合によれば住まいを移しても良し。『菜根譚』を利害の対立のない“新しい故郷”にしたいだけなのだ。
●想定される人口は、300人程度。村の共同施設(役場・温泉・農地など)を利用して田舎生活を楽しむ為には、世知辛いが最低限の費用は必要なので、10年分の村民株一人150万円を募る。また、多少のプライベートのために自分専用の農業小屋を作りたい方は村民株300万円をお願いする。つまり、集められた資金で村の華美にならない最低限の施設を建設する。
●『菜根譚』憲章:一人が皆のために、皆が一人のために。
注意:村民の一人一人が利他の心で『結(ゆい)』という村の暗黙の約束事(基本理念)を守ることで、対立や諍いの無い、脱都会、脱文明の自適な生活を楽しむことが出来る。勿論、現在進行形の果樹園農業に参画することも、土地を開墾して農地を作り無(減)肥料農業、無(減)農薬という約束事さえ守れば、花や野菜、果物などの露地栽培や水耕栽培などが出来ますし、村の世話役が手伝ってくれるので、趣味の農業や園芸も楽しめるのだ。
●寝泊りは、不特定多数ではなく特定少数に限定されているため、立派な施設は考えていない。基本的には村役場とその分室(小屋)を生活の場としていただく。また、温泉施設はあるが村の共同浴場と考え、利用者は“入った時より出る時”の方が綺麗と言われる使い方をしてもらう。
●小屋掛:農業や開墾に必要な場合は、“作業小屋”を建てることが出来る。
●開墾:村民の希望を、村議会で話し合い、村の土地であれば自力で開墾し、耕作地や広場などを作り、村の理念を逸脱しない限り、どんな活動でも可能です。なお、農作業は、村役場の世話役(近隣の農家)の応援が受けられるので、週末のみの素人でも本格的農業を楽しむことができる。
●永住派も歓迎するが、質実剛健、質素倹約、利他の心は失わないで欲しい。
●疎開の村:諸行無常。過去は確定し未来は未定。一寸先は解らない。だから、東京が新潟の山古志村のようになる場合もあるだろう。そんな万が一の災難を想定して『自分の田舎』をつくっておく人の為に、非常時の衣食住には万全をきしておく。
●愛すべき中であるペット達のためには、多少の費用はかかるだろうが、ケア付きのホスピス、老人ホームも用意する。
●また、『菜根譚』には、終末の棲家である墓はないが、縄文時代の遺跡がある地域に『散骨の杜』の用意があり、村民が亡くなられても、永住するもできる。
●勿論、坐禅やメディテーションなど心身の健康を維持する場所には事欠かないし、現代風の“禅的生活”の場となるだろう。
以上、第一報。詳しくは keichi-k@tkh.att.ne.jp へメールをしてください。
慧智(050305)

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2005年03月04日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

頌曰
■竭尽精神獲得渠
■心強力壮卒難除
■有時纔到高原上
■又入烟雲深処居

◆竭尽精神獲得渠
読:精神(せいしん)を竭尽(けつじん)して 渠(かれ)を獲得す。
意味:精神の限りを尽くして牛を掴まえてみると、この牛は快・不快、好き・嫌いに代表される二項対立の分別を求める心が強く、自我という虚空の己を主張し影響を受けた“外の世界”にとらわれ、明らかにした中空の手綱が、油断すると切れそうになる。戦争や競争の権化である自他対立の悪習性は、長い年月で身に付いたもので、“心の空性”はわかっても、なかなか云うことを聞かない。
◆心強力壮卒難除
読:心(しん)強く 力(ちから)壮(さかん)にして卒(にわ)かに除き難し
意味:長い間野放図にされた己の心は、野生化した牛のように力が強く、そのバカ力を無くさせるのはなかなか難しいので、急ぐことはできないので、ますます熱心に坐禅に励まなければならない。
◆有時纔到高原上
読:有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り
意味:云うことをなかなか聞かない有様であるが、『ある時は悟りの頂上に立って衆生を度せんとするが、その対象としての衆生が無く、その世界に執着して独りよがりになり『悟ったという心』に執着し融通無碍な自由な心が曇るときがある。この状態を『禅病』と言い、利他を必要とする世界の無用の長物となってしまう。
◆又入烟雲深処居
読:又烟雲の深き処に入って居す
意味:もう一つの問題は『烟雲』という一元論を二元論で説明するような二項対立の魔境に、すぐに戻ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまうことがある。まあ、自分はは他人が容易く持てないような“悟り”を開いたという自信に漲り、それが高じて、悟らない人より頑固となり、自己主張が強くなって、手に負えない状態となってしまう。(慧智はこの傾向を未だに具しているのは否めない)
昔から、この状態を『禅天魔』と云い、このようなケースは過去にも山ほどあり、この世界を抜け出すには、乞食などに徹して、ますます謙虚になり作務と坐禅に没入することである。


さて、『得牛(とくぎゅう)』のレベルは、“眞の己”のアナロジーである“牛”を、しっかり掴まえた段階である。つまり、“牛の正体=本来の面目”が明確になり得心を得た段階である。つまり、己を頭で理解した段階である第3の「見牛」段階とは格段の差があります。言い換えれば、第三段階では本来の己に会ったという見性経験はできたものの、まごまごしていると直ぐに見失ってしまい、『悟り』の経験を頭と口で話せる程度で、しばしば己を見失い、安易な生き方への執着を捨てられず、酒や異性や遊びに流され、自堕落な人生と聖なる人生を往復することになる一番苦しい段階である『見牛』を抜け出し、頭と心と体が一体となっている本来の己として生きられようになった“人生道”を初心者マークを付けて走れるようになった段階です。
ところが、この“己”という牛は、長い間、路上駐車していた車のように未整備で、なかなかスムーズには動きません。つまり、快楽を追い続けていた二項対立の世界の自堕落な味が忘れられないのか、どんな道でも快適に走れるというわけにはいかないのです。しかし、『色即是空』という語を観念を媒介にせずにハッキリと確信できるので、己が無限の能力を備えていることへの自信が湧いてきて“形式的に作られた思想や観念”などの方便モデルの力を必要としなくなることから、ここまで来ると牛(本来の己)を見失うことはなくなります。
慧智(050304)
★報告:TOPページの下に『十牛図』への入口を用意しましたので、参照してください。

投稿者 echi : 16:59 | コメント (0)

 
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