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2005年03月31日

野狐禅和尚の辻説法『“ひとり”じゃない』№715

論語「里仁」篇に、『子曰、徳不孤、必有隣』というよく知られた一句がある。一方、禅では“無功徳”を重視する。理由は“~のために”という道徳的行為は己への利益誘導であり、功徳ではない。言い換えれば“下心”からの行為である。しかし、『善因善果、悪因悪果』という一文もある。言い換えれば、暗黙の利益誘導である。良い結果を得たいから良い行為を行なう。これは“道徳”レベルの卑しい心であり、分別や差別の源泉である。
前出の『徳不孤、必有隣』は、「徳は孤ならず、必ず隣あり」と読み、意味は、正しい事をしていれば、例え孤立したとしても、必ず理解され支持者(隣人)が現れるということである。論語の解説書によれば、この句は孔子の体験談からの消息(≒インフォメーション・情報)とまり知識からではなく情報を背景にしているようだ。一般的な日常、社会生活では道徳を規準として動く常識派という『分別グループ』と、法律を規準として動く合理派という『弁別グループ』、法律すら無視する『無法グループ』、そして真理に随う『無心グループ』の便法上4グループに分かれる。勿論、そのような分類に意味はない。六道輪廻を考えれば、一瞬一日の間でも人間の心は無常である。
 今、道徳という性善説文化を築いてきた当たり前の社会ルールが壊れ、法治という性悪説を基盤とする社会ルールで動いている。法律に抵触しなければ、“何でも有り”というのが今の社会の様である。ここは日本。アメリカでも中国でも北朝鮮でもない。せめて“道徳”をデファクトスタンダードに暮したい。しかし、本来、道徳はローカルルールであり、日本の道徳が世界の道徳にはなり得ない。それは、道徳は文化を変数としているからである。
さて、表題の『“ひとり”じゃない』というのは、山川草木悉皆成仏、全ての現象は仏性そのものという真理を踏まえていれば『万法帰一』。“ひとり”という概念は存在しない。人間は微生物と細胞の補完共同体であり、全ての自然現象は『一切皆空』という言葉で染まされるように“空”という完全調和を“相互補完”で保証している。故に“ひとり”という概念は無いのだ。
 今日のネット禅会では、“空”を思わずに“空”に成り切って坐って欲しい。
慧智(050331)この説法は今日で2年目を終わり、明日からは3年目となる。ネット配信以前を数えると、7年目に入る。

投稿者 echi : 2005年03月31日 16:33

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