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2005年03月24日
野狐禅和尚の辻説法『発憤と瞋恚(しんに)』№709
世の中には、自分にとって不都合なこと、恥ずべき事があるとスケープゴート(贖罪の山羊)を作り上げ、自分の悪を隠すために「あいつのせいで止む無くやった」とか「あいつのせいでこうなったのだから、俺がこうするのは当然だ」とか見え過ぎた詭弁をたれ、善意の者に責任を転嫁し、コッソリと利益を貪る“卑怯者”が存在する。そして、その悪者は、猛然とした多弁で、繰り返し話している内に自分でも信じてしまい、善意の第三に本気で腹を立てることがある。仏教ではそれを『瞋恚(しんに)』といって最も忌み嫌う。そして、悪者の嘘が露呈し出すと、こんどは『嶰怠(かいたい)』という心を生み出し、ふてぶてしく怠け、居直り、今度は、それまでのスケープゴートに媚を売って取り入り、また新たなスケープゴートを作り上げて同じ事を繰り返す者がいます。
今、TVニュースに度々登場している“俄か評論家”は、大なり小なり前出の傾向があります。勿論、“瞋恚”の主人公は言うには及ばないでしょう。
ここで考えなければならないのは、事の良し悪しは別にして、俄か評論家となって知ったかぶり、“正義”を装って何を語ろうと、何も変えられません。
今、日本は病んでいます。真に日本人であれば、この状態を放置してはおけない。
今日、数十年ぶりに私の人生に大きな影響を与えて頂いた日本の教育哲学の重鎮である村井実先生とお話ができた。私が印象に強く残ったのは、『教育が人間を幸せにしたか?』という内容。思わず唸るほど考えさせられてしまった。理由は、これも尊敬する同業者でノーベル経済学賞を受賞しているベッカー博士の『教育と生涯報酬の相関関係』に眼を奪われていた私自信の軽薄さと視野の狭さに気が付いたからだ。
そして、帰りの電車で寒いのにも関わらず汗を流しながら“発憤”している自分の姿に気が付いた。よし、これから命のある限り『教育と幸福』の関係にメスを入れ、『人間を幸せにする教育』を開発するぞと考えているのに気付いた。
『瞋恚(しんに)』は、外に向かって憤り、怒り、攻撃する人間としてもっても恥ずべき心で、厳に慎まなければならない心。
『発憤(はっぷん)』は、内に向かって己の未熟さに憤り、怒り、己に対し檄を飛ばし、喝を加え、己が己を叱咤激励する心。
さて、活人諸君。ストレスのメカニズムからすれば同じではあるが、あなたは『内に敵をつくる発憤型』なのか『外に敵をつくる瞋恚型』なのか。じっくりと考えて欲しい。そして、単に『自分評論家』として己を他人事のように見ないで、如何なる場面でも“主人公”として、前向きに考え行動して欲しい。それが“活人”の証なのだから。
蛇足だが、『競争』とは、己の至らなさを“敵”として己に勝つことであり、他人との相対的消耗戦とは考えない方が良い。なお、私は『他人との競争より協奏、協創』という考え方を支持している。
慧智(050324)
投稿者 echi : 2005年03月24日 16:43