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2005年03月22日

野狐禅和尚の辻説法『布施こそ自利利他、法施・財施・無畏施、そして無財の七施』№706

今日は、久々に休ませて頂いた。すると来客。知人は、この辻説法を時々読んでいてくれているらしい。そこで質問「先生のように力があれば功徳を積むことも出来るだろうが、自分は生きていくのがイッパイ。無智で、愚かで、地位も無く、財産も無く、力も無い人間はどうしたら功徳を積めるだろう・・・と」。この質問の裏には何か事情がありそうだが、敢えては聞かなかった。それは「功徳を積めるだろう」という文節に、功徳が必要だというに至った理由がありそうだったからである。
 “功徳を積むこと”に理由は無い。功徳を積むことに理由をおけば、それは「不清浄施」といって退けられます。坊主は在家の人々に道を説き(法施)、安心を与える(無畏施)、一般の方が寺への喜捨や公益団体に寄附をする(財施・信施)は“当然”。人々は助け合って生きて要ってこそ“人間”なのですから。ところが、“何も無い”という人でも“何かしたい”ということは素晴らしい。勿論、禅は“全てを捨てる”ことにより大安心が得られ、利他に徹することが自然となるとしています。言い換えれば、『全てを捨てた者』と『何も無い者』には、非なるが似ているものがある。その人には『無財の七施』という行為がある。それは、『眼施』、軟らかい視線で人に接する。『和顔悦色施』、微笑みに満ちた優しい顔で人に接する。『言辞施』、角の立たない優しい言葉で話す。『身施』、礼儀正しく接する。『心施』、善意を以て人に接する。『牀座施(じょうざせ)、人に席を譲ること。『房舎施(ぼうしゃせ)』、寝る場所に困った人を家に泊めることであり、“ある意味”で道徳的なことであり、だからこそ、誰でも出来るが、難しいことでもある。言い換えれば“全てを捨てた者には当然なことで、何も無い者には“素晴らしい”ことなんでしょう。しかし、そこに“下心”があれば、望んでいる方向とは“逆”に進んでしまいます。
 『功徳』を積もうなんて思ってはいけません。困った人を助け、無い者には与え、社会を明るく、他人を蹴落とすことなく生きているのが一番です。
つまり、人間は、己に素直になり、金だ支配だと息巻かず、無駄使いをせず、質実剛健に“淡々”と“当たり前”に“利他”に生きる事、それが一番の“功徳”だと思っています。
慧智(050322)

投稿者 echi : 2005年03月22日 06:45

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