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2005年03月21日
野狐禅和尚の辻説法『人間は“解釈”する動物』 №705
“解釈”とは、言葉や文章、または物事(事実)の意味、即ち“事実”を観察者(情報の受け手)の知識(明白知)+経験(暗黙智)=知性レベルに従って類推、推測・推理・推定などの“思考(個性により論理的思考と感覚的思考がある)”を行いて評価し、言葉や文章、物事の『価値付け』を行い“個人的な新たな意味(価値付け)”を与える行為である。
昨日の『禅会』前後の車座で、“友人”“知人”“家族”“夫婦”・・・など『人間関係』の関係性の定義について議論があり、それらには意外と大きな個人差(解釈)があることを再認識した。
元来、『禅』では、“それら”を“分別”という表現で、“真金の曇り”として“捨て去る”べき意識である“差別の温床”としている。簡単に言えば、多くの場合、“定義”は排他性を約束する思考様式における必須の思考原点である“分別”、言い換えれば、差別の源流である二律背反化、二項対立化の源泉なのである。故に、“禅”においては、弟子の質問に対し、師は直接的に回答しないし、質問者である弟子に対して、師は“質問内容”が弟子の経験との関係で“止揚”可能なフィードバックをするのだ。だから“それ”を知らぬ者には禅問答そのものが難解と映り、師と弟子との間に未だ共鳴しうる関係が成立していない場合と同様、以心伝心は実現されないのである。つまり、質問者と回答者の悟りのレベルが拮抗しなければ、以心伝心は生まれず、当然、双方が自覚できるのである。そこで、禅の修行においては、師である自分を超えてゆくことが感じられた弟子にしか“印可(法系を担わせる)”をしないのである。
話が少々ズレたので、元に戻す。
『人間関係』という人間同士の関係の包括概念(抽象名詞)に、その特徴、傾向別に固有の名詞が与えられたのが、友人関係、仲間関係、親類関係、一家関係、親子関係、夫婦関係などなどという名称と標準化された意味が与えられ、“普通名詞化”が行なわれ、更に“その”最小単位である関係には、“固有名詞化(山田さん夫婦とか、天皇ご一家など)”が行なわれ、“その関係”を言葉や文字、行為の形式で理解しようとする。
ところが、“そこ”には知識や経験などを変数とした誤った解釈となる問題が生まれたので、人間は“辞書・辞典”を発明して、“言葉の標準化”を行い、個人による勝手な解釈と伝播を食い止めてきた。
しかし、近代のように知識や情報の質量が飛躍的に拡大するようになりと、その所有量を関数とするな“階層化”社会が強化助長されて固定し、更には、印刷→通信→放送→??へいう文明の進化と情報の伝達スピードが飛躍的に大きくなったことから、知識や情報の質量は個人間で益々大きな差が出来、“縦社会”が完成されてきた。そして、昨今、元々は米国の軍事技術であり、DBの共有を求めて開発成長してきた“インターネット”という素人(無智で勝手な解釈をする者)御用達のメディアが生れ、新しい“ネット社会(非関係的情報網社会)”を作り上げてきている。
そこで、問題となるのは、『言葉の定義』による“差別”である。言い換えると、二項対立・二律背反である。
誰かが「私には“友達”がいない」と言ったとする。それを聞いていた人が「私は友達ではないの・・・?」と感じたとする。また、ある女性が「彼は家族です」と言ったとき“その彼”が彼女の夫で、それを聞いていたら・・・。ある経営者が「命の次に大事な金を投資して、利益を生む鶏を手に入れて大事な社員や株主に金を与えるのは、頭の悪い社員の稼ぎが無いからで・・」という話を、その経営者の社員が聞いたら・・・。さて、みなさんはどう思いますか?
纏めると、“友達”と“非友達(友達以外)、他人>知人>仲間≒友人≒友達>親友>家族(親戚>親子≒同居>子供≒夫婦)>自分などのような価値例で示されるように、順序は別にして、正しく『差別構造』なのです。また、それが“道徳(子供は何より親を敬え)”や“倫理”、および倫理や道徳の延長線上にある“神教”の世界です。
ところが、仏教、特に仏心宗といわれる“禅宗”の本質(現実には矛盾もある)は、“無差別、無区別”であり、優劣という差別を止揚させることを第一としています。ですから、本質的には妻と妻以外、息子や娘とそれ以外が自然に生まれ、必然的に序列や差別を生むような関係を否定しています(現在は蔑ろになっている)。
私なり、活人禅会の考え方は『来る者は拒まず去る者は追わず』という言葉で表わしているように、生命は勿論のこと森羅万象の全ては“皆、仲間”であり、“平等”というファンダメンタルの上に、行為(好意ではない)が生れ、『一人が皆の為に、皆が一人の為に』、一人一人は『無対立・無犠牲・自主独立』を信条として生きてゆこうとしています。勿論、それは完全ではなく、知らず知らずに罪を犯していることがあるが故に懺悔がある施餓鬼があるのだ。それらを実現してゆくためには融通無碍、臨機応変、工夫、智慧などなどを磨き上げている。騙されても、脅されても泰然自若、悠然として凛と立って意図的な反撃などせず、わが道を行ける無心の己の確立を目指している。
『相互支援』の倫理(理想)の世界、『弱肉強食』の幻想(現実)社会。何れに組して生きるかは自由だが、それを止揚した『万法帰一(→一切皆空)』という本質の世界に住み替えても良いのではないだろうか。
夫婦だとか、友達だとか、敵味方などの二項対立を乗り越え、“人間”として“森羅万象の一現象”として、縁に随い、一瞬一瞬を永遠の不可分として大事にして生きる。一日を一生として生きる。“今”の流れに全力で取組む。結果は自然と成る。そうは考えられないだろうか。
私は、一面では経営戦略のコンサルタントでもある。戦略論を駆使して企業を勝ち組に導くというコンサル会社の代表でもある。一見すると、個人の生き方と会社の在り方が“矛盾”しているように思われることもある。しかし、私の中では“無矛盾”なのである。それは『人を観て法を説き、出来るだけ早く“竿の先”“川の手前”までお連れし、望めば“川を渡し”、望めば“竿先から戻す”ことを手伝っているという認識にあるからです。蛇足であるが、それもそろそろ潮時かもしれない。
教訓:『一切の執着、拘り、偏見を捨て、皆んな仲良く、ニコニコと生きよう』
慧智(050321)
投稿者 echi : 2005年03月21日 16:46