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2005年03月17日
野狐禅和尚の辻説法『“禅”とは・・・・“呼吸”のようなもの。』№703
『趙州洗鉢』という、所謂“禅語”があるのを知っている人は少なくないだろう。しばしば、茶室に床の間に下がっている“あれ”だ。出処は、「無門関・第七」の公案。
ある時、一人の僧が趙州に「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい」問うた。すると、趙州は「朝ご飯は食べたか」と返し、「はい、食べました。」と僧は答えた。すると、趙州は「それでは持鉢(じはつ)を洗っておきなさい」と言った。そして、僧は心眼を開いた。・・・難解。
無門関・第一則“趙州狗子”で出てきた趙州(じょうしゅう)和尚は中国唐代の後期、禅宗の大和尚で、「唇皮上に光を放つ」と言われたほどの人物です。一喝する祖師もあれば、棒を振るう祖師もあり、また一指を立てる祖師もあり、なかなかユニークな時代ですが、趙州大和尚は、精妙な言句に鋭い機鋒を現した、現代禅風の祖と言われています。この公案は、表面的な会話は小学生でも分かるものですが、真意となるとなかなか難しいし、それを生涯の態度で示すとなると、『小学生でも解るが大人でも出来ない』というものだろう。
そもそもこの僧は、新参者と自ら名のっていますが、僧堂に入ったのは新参であっても、禅修業においては新参者ではない。本当の新参者がこの程度の2、3の会話で悟れるなら、私ですら10年で悟り切っただろう。しかし、そんな甘いものではない。六祖・慧能の頓悟(修行の段階を経ずに一挙に悟りが開けること )にしても、“下地”はあったはず。
さて、横道から戻ろう。公案で趙州和尚は、「朝ご飯は食べたか」と、聞き返しました。そもそも弟子が、「師よ、どうか指示をお与え下さい」と言っているのにである。何故、趙州和尚は“朝飯の事”を聞いたのだろう。
そして、この僧は、何故、悟れたのだろう。・・・“何故”と言われて考えるようじゃ未熟。
趙州和尚の真意は以心伝心で受け止め、教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏が一瞬にして浸透しただろうが、「何故か」。
それは、日常的動作の中に“全て”が過不足なくあるが、ある特殊なタイミングでしたそれを体験できないということです。『啐啄同時』という禅語もあるでしょう。“悟り”とは、何も、“特別な所”の“特別な事”ではなく、当たり前の日常の全てに浸透し投影している真理を気付くことで、“一瞬”にして世界観が変る機の出来事なのです。簡単に言えば、「それまでの“苦”だと思っていたことが、それこそが“楽”だというように人生が180度変わることなのです。
己の行住坐臥が、そのまま“仏の営み”であるというのが“禅の極意”なんです。
子供でも解かるが、大人でも容易には出来ないのが『禅』だと覚えておきましょう。
故に“修行は一生”、『一日一生』なんです。
慧智(050317)
投稿者 echi : 2005年03月17日 16:47