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2005年03月12日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)』№695

十牛図第五『牧牛』(牛を馴らす)段階について。
頌曰
■鞭策時時不離身
■恐伊縦歩入埃塵
■相将牧得純和也
■羈鎖無拘自逐人
(図版はHPのTOPの下から“十牛図”を見てください。ここが菩薩道の五合目)
◆鞭策時時不離身
読:鞭策(べんさく)時々(じじ)身を離れず。
意味:(牧牛は掴えたておくのに血みどろの努力をしたのであるから)、鞭、綱は片時も自分の身から離さないようする。
◆恐伊縦歩入埃塵
読:恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に入らんことを。
意味:(さもないと、)あの牛はきっと勝手に行きたいところへ飛んでいって、塵埃が一杯ある分別の世界に入ってしまう。(つまり、欲求充足、快楽追及の俗世間と悟の世界の魅力との板ばさみにsるだろう。)
◆相将牧得純和也
読:相(あい)将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんな)せり。
意味:本当に真剣になって、飼い馴らしていくと、心が段々と柔らかくなって純粋になってくる。(坐禅をして見性が許され、己の主人が己であることに得心が行くと、何となく偉くなったような気になり、知らず知らずに放漫になることがあるので、坐って坐って坐り抜くことが大事で、自分を自分が飼い馴らせれば、心も顔も柔和になり、言葉使いもソフトになってくる。
◆羈鎖無拘自逐人
読:羈鎖(きさ) 拘(こう)すること無きも自(おのず)から人を逐(お)う。
意味:(段々牛が落ち着いてくると、)羈鎖(手綱や鎖)をつけておかなくても、自然にその牛は己についてくるようになる。(行住坐臥の悟りが生き、本来の牛(己)を見失うことが無い様になる)

解釈:『牧牛』のレベルになれば、本来の己である牛を手に入れてはいるが、そこで安心せず必死になってそれを馴らし、己のものにしていく大切です。
心には実体がなく、時に応じた現象であると同時に宇宙万物、森羅万象もまた、実は実体ではなく現象であるという『空観』に得心が得られる。しかし、まだまだ、観念・妄想の根は残っているので、目が出てくるので、それを自分で積むことになる。ところが、悟りを体得していると同時に、邪心の状態も知っているので、かえって“悟り”の素晴らしさに呑まれ、悟りの体験を鼻にかける思いに陥入ることがあるので、厳に戒めておかなければならない。まあ、『禅』の素晴らしさ、『禅』のレベルの高さを吹聴し、やたらと人の指導をしたがるような弊に陥入るので注意すること。また、次から次へと湧き出てくる想念・分別の本質が本来カラッポであって実体が無いことを十分に理解し体得しているだろうが、それに執着してしまう程度のレベルなのです。私たちの日常は常に主観・客観の二項対立でみるのが簡単なので、「有る・無い」という対立観念に陥り易い。真理は、有ることは無いことであり、無い事はあることであるように、『有ることと無い事が調和して現象している万法が一に帰すのです。『牧牛』という段階は、実はとても苦しいが、それが己の弱さを再確認するには良い機会になる。この段階を過ぎれば、人に対しては極めて寛容的になれ、時盗人(時間を守らない者)や泥棒や詐欺師にすら、哀れみをかけられるようになり、穏やかな人生の入口にあることが実感できるだろう。(本当です)
慧智(050312)

投稿者 echi : 2005年03月12日 16:52

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