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2005年03月04日

野狐禅和尚の辻説法『十牛図第四『得牛』(牛をつかまえる)』№685

頌曰
■竭尽精神獲得渠
■心強力壮卒難除
■有時纔到高原上
■又入烟雲深処居

◆竭尽精神獲得渠
読:精神(せいしん)を竭尽(けつじん)して 渠(かれ)を獲得す。
意味:精神の限りを尽くして牛を掴まえてみると、この牛は快・不快、好き・嫌いに代表される二項対立の分別を求める心が強く、自我という虚空の己を主張し影響を受けた“外の世界”にとらわれ、明らかにした中空の手綱が、油断すると切れそうになる。戦争や競争の権化である自他対立の悪習性は、長い年月で身に付いたもので、“心の空性”はわかっても、なかなか云うことを聞かない。
◆心強力壮卒難除
読:心(しん)強く 力(ちから)壮(さかん)にして卒(にわ)かに除き難し
意味:長い間野放図にされた己の心は、野生化した牛のように力が強く、そのバカ力を無くさせるのはなかなか難しいので、急ぐことはできないので、ますます熱心に坐禅に励まなければならない。
◆有時纔到高原上
読:有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り
意味:云うことをなかなか聞かない有様であるが、『ある時は悟りの頂上に立って衆生を度せんとするが、その対象としての衆生が無く、その世界に執着して独りよがりになり『悟ったという心』に執着し融通無碍な自由な心が曇るときがある。この状態を『禅病』と言い、利他を必要とする世界の無用の長物となってしまう。
◆又入烟雲深処居
読:又烟雲の深き処に入って居す
意味:もう一つの問題は『烟雲』という一元論を二元論で説明するような二項対立の魔境に、すぐに戻ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまうことがある。まあ、自分はは他人が容易く持てないような“悟り”を開いたという自信に漲り、それが高じて、悟らない人より頑固となり、自己主張が強くなって、手に負えない状態となってしまう。(慧智はこの傾向を未だに具しているのは否めない)
昔から、この状態を『禅天魔』と云い、このようなケースは過去にも山ほどあり、この世界を抜け出すには、乞食などに徹して、ますます謙虚になり作務と坐禅に没入することである。


さて、『得牛(とくぎゅう)』のレベルは、“眞の己”のアナロジーである“牛”を、しっかり掴まえた段階である。つまり、“牛の正体=本来の面目”が明確になり得心を得た段階である。つまり、己を頭で理解した段階である第3の「見牛」段階とは格段の差があります。言い換えれば、第三段階では本来の己に会ったという見性経験はできたものの、まごまごしていると直ぐに見失ってしまい、『悟り』の経験を頭と口で話せる程度で、しばしば己を見失い、安易な生き方への執着を捨てられず、酒や異性や遊びに流され、自堕落な人生と聖なる人生を往復することになる一番苦しい段階である『見牛』を抜け出し、頭と心と体が一体となっている本来の己として生きられようになった“人生道”を初心者マークを付けて走れるようになった段階です。
ところが、この“己”という牛は、長い間、路上駐車していた車のように未整備で、なかなかスムーズには動きません。つまり、快楽を追い続けていた二項対立の世界の自堕落な味が忘れられないのか、どんな道でも快適に走れるというわけにはいかないのです。しかし、『色即是空』という語を観念を媒介にせずにハッキリと確信できるので、己が無限の能力を備えていることへの自信が湧いてきて“形式的に作られた思想や観念”などの方便モデルの力を必要としなくなることから、ここまで来ると牛(本来の己)を見失うことはなくなります。
慧智(050304)
★報告:TOPページの下に『十牛図』への入口を用意しましたので、参照してください。

投稿者 echi : 2005年03月04日 16:59

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