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●『露蓮(ロハス)の会』世話人代表、快山慧智禅師の考え


 死は生きている限り未だ訪れていないし、直前であっても死は未来の現象であり、生きている限り、己の死は経験できません。

 それ故に、聡明でありながら健康に問題のある者は、他人の死から己や家族の死を連想して妄想に陥り、不安に苛まれ、個性により悲観的か楽観的かの違いは出ますが、それを元に物語をつくり、支持の多い物語は『宗教』の一部ないし全部に取り込まれました。

 一方、何事も深く考えることなく健康に年を重ねてきた者は、“ピンピンコロリ”と表現される他人事としての“幸せな死に方”に憧れて「まあ、何とかなる」と、死そのもを棚上げ″して享楽的な人生を歩む人が多いようです。

 仏教は本来、生は生、死は死という分別をせず、連続性という考えに立脚しています。言い換えれば『生死一如』、個体の死は別の個体の生であるというような意味です。だからこそ『死後の世界』という質問に対しては釈尊は、「個々人が勝手に考えれば良い」と言うだけで、何を言おうと賛否に巻き込まれ、今を生きてゆく上で大切な平安、安寧を脅かされると考えたのでしょう。

 禅の公案、碧巌録55則『道吾漸源弔意』に「棺の中の人は生きているか死んでいるか」という漸源の問いに、道吾は「生とも言えない、死とも言えない」と返します。

 何故でしょう。

 詳しくは、機会を改めますが、『不生不滅(死)』、生即死即生。全生全死。一日一生、一生一日、生死一如であり、生死は二項対立、二律背反ではなく不確定的連続性としています。

 日本では死者に対して“成仏”を願うという習慣があります。成仏の定義や意味は、宗派により微妙に異なりますが、概して言えば“仏陀(仏)”、つまり『智慧を得て真理に目覚めた人』を指すわけですから、生きているからこそ実現可能なのですが、他方、死を無心の状態、物我一如と考えれば、誰でも死ねば成仏するのであり、改めて願う必要は無いだろう。

 況や、楽しい心身ともに健康で、生活には多少のゆとりが出ている時間には限りがあり、無駄な事をしている時間など無いという人もいます。だからといって、好き勝手、享楽一辺倒では、彼の世の地獄どころか、此の世で地獄行きになりかねない。となれば、死後の事など考えずに、今、生きている此の世を極楽にするのが良いだろう。では、どう生きるか。それを知り、確信し、実行するのが禅道なのだ。

 言い換えれば、本来は通夜も葬儀も供養も不要。死んでから買う戒名など猿芝居である。戒名とは、受戒名の略で、仏道を生きてゆくと誓った者に無償で与えられるのが基本。死んでから買うなど滑稽以外の何ものでもないが、世間の慣習を吉とする者にすれば、死んだら戒名を付けてもらうことで不安を起こさず波風も立たないというのであれば、それなりに意義があるでしょう。

 ですから、わしは、求められれば何でもします。しかし、知ってて欲しいのは、葬儀から納骨までの一連が演出された白々しい茶番劇″では情けないねと言いたい。

 独り言ですが「儂が一人で供養して葬ってやるから、義理で立ち会っているような奴らは帰れ」と怒鳴りたくなることもあります。

 
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