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2007年01月16日
●全生全死

死は生きている限り未だ訪れていないし、死の直前であっても死は未来の現象である。つまり、生きている限り己の死は経験できない。それ故に私達の多くは、他人の死から己や家族の死を類推する。故に、幸せな死に様に縁がある方は死を忌み嫌わないし、不幸せと考えられる他人の死を身近に体験した人は、死を意味嫌う。
禅では、生は生、死は死という分別をしない。言い換えれば、生死一如、個の死は別の個の生であるとも言える。だからこそ、禅では死を生と切り離しては考えないし、死後という概念に対しては「個々人が勝手に考えろ」と言うだけです。『碧巌録55則道吾漸源弔意』に「棺の中の人は生きているか死んでいるか」という漸源の問いに道吾は、「生とも言えない、死とも言えない」と返す。詳しくは機会を改めるが、『不生不滅(死)』、生即死、死即生。全生全死。一日一生、一生一日、生死一如であり、生死は二項対立概念ではなく、不確定的連続性なのである。
それはそれとして100歩譲って、日本では死者に対して成仏を願うという習慣があるが、俗世間の常識から考えても、成仏(本当の智恵に目覚めた人)は、生きているからこそ可能なのではないだろうか。
果樹葬の前に、即心菩薩を建立し、死を覚悟する・生を覚悟するなどを越えて、『生死一如』に目覚めて淡々と暮す者は、不安・恐れ(苦)は即座に消滅し、自分を取り巻く全ての現象に対して感謝が生まれ自然と大安心が訪れるのです。
さて、安心して生きる、安心して死ねるにはどうすれば良いか。答えは一つ。此の世で成仏することである。言い換えれば、『己も仏』であること体験することであろう。
文責:慧智(060116)
投稿者 echi : 2007年01月16日 10:09