2007年04月07日

★☆★☆『露蓮(ろはす)の会』入会のご案内☆★☆☆


『露蓮(ろはす)の会』は、会員ご自身や近親者のご遺骨を“従来型の墓地”に埋葬し、決まり切った墓碑を建てる近年の埋葬形式の因習から解放し、ご遺骨を静岡・南伊豆町ないし茨城・大子町の『露蓮(ろはす)の丘』に“散骨(果樹葬)”をされたい、と決意された人々の会で、宗教法人活人禅宗が責任をもって永遠に管理する新しい思想の墓地です。
なお、当然のことですが、当聖地は『個人のため』の存在であり、散骨に関する費用もその後の費用も一切不要ですし、人種・宗教・性別などなど一切は不問です。
但し、入会に際しては、生前から“生命と人生”を大切にされている方のみです。
費用は、終身会員入会金10万円と終身会費10万円、合計20万円のみです。
ご注意:営利事業ではありませんので、特別なサービスはありませんが、現地見学やご相談のある方は、『露蓮(LOHAS)の会』の世話人である活人禅寺の小林慧智和尚にメールで連絡を入れてください。メールは、keichi-k@tkh.att.ne.jpです。

投稿者 echi : 10:59 | コメント (0)

2007年01月16日

●全生全死

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死は生きている限り未だ訪れていないし、死の直前であっても死は未来の現象である。つまり、生きている限り己の死は経験できない。それ故に私達の多くは、他人の死から己や家族の死を類推する。故に、幸せな死に様に縁がある方は死を忌み嫌わないし、不幸せと考えられる他人の死を身近に体験した人は、死を意味嫌う。
 禅では、生は生、死は死という分別をしない。言い換えれば、生死一如、個の死は別の個の生であるとも言える。だからこそ、禅では死を生と切り離しては考えないし、死後という概念に対しては「個々人が勝手に考えろ」と言うだけです。『碧巌録55則道吾漸源弔意』に「棺の中の人は生きているか死んでいるか」という漸源の問いに道吾は、「生とも言えない、死とも言えない」と返す。詳しくは機会を改めるが、『不生不滅(死)』、生即死、死即生。全生全死。一日一生、一生一日、生死一如であり、生死は二項対立概念ではなく、不確定的連続性なのである。
それはそれとして100歩譲って、日本では死者に対して成仏を願うという習慣があるが、俗世間の常識から考えても、成仏(本当の智恵に目覚めた人)は、生きているからこそ可能なのではないだろうか。
果樹葬の前に、即心菩薩を建立し、死を覚悟する・生を覚悟するなどを越えて、『生死一如』に目覚めて淡々と暮す者は、不安・恐れ(苦)は即座に消滅し、自分を取り巻く全ての現象に対して感謝が生まれ自然と大安心が訪れるのです。
さて、安心して生きる、安心して死ねるにはどうすれば良いか。答えは一つ。此の世で成仏することである。言い換えれば、『己も仏』であること体験することであろう。
文責:慧智(060116)

投稿者 echi : 10:09 | コメント (0)

2007年01月15日

●果樹葬の聖地『露蓮の丘』の休憩所●

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投稿者 echi : 16:50 | コメント (0)

2007年01月11日

『露蓮(ろはす)の会』からのご案内

『露蓮(ろはす)の会』は、遺骨を従来型の墓地に埋葬し高価な墓碑を建てる埋葬形式の因習から解放され、遺骨を『露蓮(ろはす)の丘』と名付けられた聖地(静岡・南伊豆町ないし茨城・大子町)に“散骨(果樹葬)”をすることを決意された人々の会で、宗教法人活人禅宗が管理・運営しています。
なお、当聖地は人種・宗教など一切は不問ですが、生前から“生命と人生”を大事にされている方を終身会員としています。

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投稿者 echi : 17:32 | コメント (0)

●基本思想

●はじめに
全ての生き物は“力の循環(物質の原点)”という本質を共有しています。
簡単に言えば、形ある物は壊れ、命ある者は死ぬということです。そして、壊れた後、死んだ後は、私達を取り巻く大自然を構成している“重要な一部”として、次なる現象に変わる準備段階に入ります。
その循環が安定的に維持されている世界を『サステナビリティ(持続可能)』で健康な社会と言います。最近の流行でいうところの“LOHAS” Lifestyles of Health and Sustainability(ロハス)“という生活様式です。勿論、最近の流行に乗るまでもなく、我が国に於いては有史以来続いている性向(潜在的な生活様式)であり、鎌倉時代以降は“禅風(禅宗の考え方)”として、自然と共生し、美徳を重んじ、人間としての卑怯なる振る舞いを嫌う良識ある常識人に伝わっています。ですから、LOHASと言って取り立てて騒ぎたてることは無いのですが、江戸から明治へと時代が移り変わり西洋的合理主義の悪しき思想の一部である“経済優先”の思想が、“自由主義”という政治思想と結びつき、更には“司法および行政の利便性”が結びついて、今日のような”美学を失った”社会となってしまっています。その流れにあるのが、『家墓地(何々家の墓と墓石に刻まれている墓地)』というもので、国家権力が民を管理する仕組みとして採用し、一部の特権階級を除く全ての国民から“葬送形式の自由”を奪って土葬・水葬・鳥葬などを禁じ、火葬のみを強制するという法律が生まれ、それに呼応して“遺骨は骨壷に入れて家墓地のカロート”に置くという形式が標準化されてしまっています。そして戦前までの“長子家督相続”という伝統に因んで“墓地は本家の財産”として直系子孫(本家)に受け継がれるようになっています。
仮に、100歩譲って、今日の日本に於いて相続を含めて“家制度(長子相続)”が存続していれば、子々孫々がコストを支払って『家墓地』維持することで一族の団結を強固する意味はあるかもしれませんが、今日の現実は異なります。勿論、長子相続の原則が続いているとしたら、明治以前のように一族が菩提寺を建立して一族のみの過去を全て記録する専用境内墓地が合理的です。
 ところが、現在の日本を見ると、一族が纏まっている地域社会を構成しているどころか、少子化が進み、離婚数は増加し、家庭崩壊と思える事件は枚挙に遑がありません。
つまり、“歪んだ個人主義(利己主義)”が蔓延り、墓地が遺骨の廃棄場となっているような時代です。
 私たちは、このような状況を踏まえ、安きに流れるという日本人の陰の文化の不可逆的本質を踏まえれば、我が国に於いては、葬送や埋葬に関する慣習を既存宗教から切り離し、新しい葬送と埋葬の文化構築が必要になっていると考えています。

注)『宗教』とは、本来は“宗たる教え”であり、宗旨宗派に囚われ生活スタイルを強制されるものではなく、一人ひとりがイキイキと暮らすための“縁って立つ”考え方で、一人ひとりの自由意志に立脚します。(禅の考え方)

●私達の命は独立しつつ連続している
 子供の有無に関係なく、私達の命は、他の命と紙の裏表のように“不可分不可同”の関係にあります。私達人間は、毎日毎日、他の生命や生命の構成要素である物質を犠牲にしてしか生き続けられません。肉や魚が命であることは解りやすいのですが、野菜や果物も命ですし、水や空気という物質は他の命の構成要素なのです。そう考えると、私たちは近視眼的には父母の御蔭様で生まれ、他の命を犠牲にして生きていますが、父母が、祖父母が・・此の世に生まれ寿命を全うしてきた背景を考えれば、私たちは、大自然の循環の一瞬の結晶としてこの世に一時的に存在し大自然に帰る存在、否“現象”であることは容易に理解できるでしょう。だからこそ、日本人の美徳は食事の際の挨拶である“頂きます”という言葉に表れているように、全ての自然と関わる命に対する畏敬の念を言葉にしているはずです。

●新しい埋葬文化として“果樹葬”を提案しています。
 以上から、私たちは“果樹葬”と名付けた新しい散骨文化を構築しました。
『果樹葬』は、遺骨を大地に直接撒き、そこに記念となる果樹を植え、遺骨を生命の源である大地に戻しつつ、その要素の一部を果樹の根に提供して次の世代の“実り”を実感することで大自然の循環を子々孫々に体現できるようにするための『植樹型の散骨』です。

●転ばぬ先の杖を持つことは安心という“生きる力”になります。
日々を安易に生きるのではなく命の限りをを知って寿命の尽きる日までイキイキと生きようと覚悟を決めた時、自分らしい最後の姿が脳裏を過ぎります。否、私は過ぎりました。
自分自身の力で、自分自身の人生を完全燃焼させようと考えたとき、ふと心を過ぎる不安「死んだら私はどうなるのだろう」は、誰にも共通してあるようです。そこで、直ぐに連想するのが「どこのお墓に入るのだろう」ないしは「そうだ、お墓を買おう」というケースが多いようです。また次の瞬間、でも「私のお墓は誰が面倒を見てくれるのだろう」とか、「死んでからも子供達に迷惑はかけたくない」・・・などなども考えてしまうそうです。

●今、此処で完全燃焼するのが一番大切です。
本当なら“お墓”なんか要らないんです。そもそも、お釈迦さまにだってお墓は無いし、お骨も仏舎利と言われ世界中に分散しています。しかし、どうしてもお墓が必要だと思う人は、あった方が良いと思います。何故なら、自分が信じていることに逆らうことで生きがいを失うからです。
言い換えれば、人間は毎日毎日を完全燃焼してイキイキと生き切る事が何よりも大事なのです。勿論、誰だって不安はあります。生きる不安、老いる不安、病む不安、死ぬ不安を中核に、受験に対する不安や失業する不安、嫌われたり恨まれたり忘れられてしまう不安・・。不安の種は尽きないかも知れませんし、不安を種に自殺してしまう人までいます。心理学的に不安を大まかに考察すると、悲観的な個性が20%、楽観的な個性が20%、両方が混在する個性が60%います。悲観的な人とは現象の否定的な部分に着目し、楽観的な人は肯定的な部分に着目します。しかし、現実は“同じ現象は二度とおきない”という時間の概念に支配され“この宇宙に普遍的な存在は無く全てが変動的な現象だという事実ですぅ。言い換えれば“諸行無常”ということです。だからこそ、今・此処を全力で生きることが大事で、決定している過去、全てが可能性である未来に執着し、囚われ拘ることは無意味なのです。

●選択肢は自然が用意し、選択権は個人が行使します。
人間には色々な生き方があります。誰かの顔色を伺い、誰かに依存して生きる生き方。これは少々寂しくはありますが、それもその人の選択肢です。もう一つは自立して自分の事は自分でする、という生き方。活気を感じます。しかし、そんな方にも言葉にならない不安はつきものです。健康の事、収入の事・・そして死んでからの事。
そもそも禅寺は、イキイキと生きている人のために存在するのであり、お墓はイキイキ生きることを支えるための便宜上の形式に過ぎません。勿論、禅僧は日課として私達の今・此処を支えて頂いている全ての現象に対して供養をしていますが、これとて“無功徳”です。言い換えれば“当たり前”のことです。
元来、お寺は今、此処に生きている人のために存在しているのです。勿論“観光”という事ではありません。出会いの場所、学びの場所、安らぎの場所という意味です。

●活人禅宗に属する寺や施設は、次のような考え方に基づいています。
1、人間修養(品格を高める)の場(坐禅の指導や生き方の勉強会が行なわれるところ)
2、俗社会での地位や貧富の差を超越して集う場(各種集いの場所を提供)
3、命を実感する場(真正面から生死を考え語れる場)
4、心を癒し気品ある生活を獲得する場(文武から農林水産体験(作務)・・・)
5、自然と共生できる場(散策や草花の育成など)

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●『露蓮の会』についてのお問い合わせや現地見学の申し込みは
東京(03)5550-9803東京事務局の小林慧智へお願いします

投稿者 echi : 17:23 | コメント (0)