慧智和尚の辻説法


上部にある『書庫』には、過去の接ぎ説法などが1000篇が修められています 2007-04-30 (Mon)

ブログより、昨年の方式が良い、という言葉を頂く場合がありますが、両方というのは無理なので、ブログをご覧ください。
また、個人メールより、info2@ryobo.orgに意見・苦言を頂いたほうが返信が早く出来ますので、ご利用ください。
慧智 拝


ブログ形式に移行させていただきました 2007-02-24 (Sat)

お尋ね頂き感謝します。
年初より、以下のアドレスになりました。
LINK

http://www.ryobo.org/seppou/


●野狐禅和尚の辻説法『質問に応えて』 第988話 2006-09-05 (Tue)

質問:「和尚の話では“言葉は無力”とも“強力”とも聞こえます。私は言葉こそ大事だと思いますが、どちらでしょうか」
回答:一般論としては、人生の体験に「言葉」は非常に大きな役割を果たします。理由は簡単です。自分たちの過去に体験したことを誰かに説明する時に使う言葉が、私たちの未来の体験そのものになるからです。言い換えれば、言葉にしたことの無い体験はしない、ということです。少し哲学的になりますが、現在の自分に対して命題を突きつけていれば、必ず解が得られます。“解”というものは、その命題が成立した時点で暗々裏に用意されているのです。言い換えれば、我々がすべき事は、自分自身に対して「正しい命題」を突きつけることなのです。例えば、「私は有能である」という命題を自分に突きつけけている現在のあなたは、未来から見れば「有能だった」ということになります。
 断言的に言えば、未来の視点で過去を直せるのが「現在」ということです。じっくりと次の事を考えてください。
『現在という瞬間が積み重なったのが過去、そして、未来は現在を積み重ねて過去にする』ということです。換言すれば、自分の人生に起こる出来事を管理できるのは自分自身なのです。自分がどのような人生を送るかを決めているのもあなた自身です。ですから、今何か不満なことがあれば、何をどのように変えるかを決めれば良いのです。だから言葉は人生を作り上げる道具ですかから“強力”といえます。以上が、一般論です。
 禅では、「百尺竿頭で一歩を進める」というニュアンスの言葉で、一般論を吹き飛ばします。人間としてのゴールは、菩薩としてのスタートと考えるからです。勿論、人間は菩薩と表裏一体ですから分けて考えることは出来ませんが、方便としては解りやすいので、二元論的な表現を使います。
さて、人間の世界には言葉があり、菩薩の世界には言葉はありませんね。そして、禅の修業とは、人間を過去の現象として、菩薩としての未来を築いているのが現在という現象です。『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時人不待』。木槌を打った瞬間に過去・現在・未来が相互浸透します。雲水は毎日毎日、この言葉をイメージの世界に刻みつつ、言葉に囚われる心を捨てていきます。捨てきったとき、人間と菩薩が一体となり、知識を得ることで解る人間が、知識を捨てることで全てを見通す菩薩に変身します。私は、セミの幼体が脱皮し成体になる瞬間を沢山見てきました。大自然の秩序です。それを真理と言います。真理は言葉ではありません。言葉でお腹がいっぱいになりますか?言葉により得られる幸せ感は永遠ですか?言葉で出来ているものは言葉で崩れると思いませんか。それでも大事なのは言葉ですか?それとも、意味ですか?それとも貴方の考えや行動が変わることですか?言葉に何を求めているのですか?言葉は“目的”に“目標”を実現する手段ではありますが、唯一絶対ではありません。大死一番。一度、言葉を捨ててみては如何ですか?安心という言葉や概念と同時に、不安という言葉や概念も消えますよ。何が残りますか。本来無一物ですよね。まあ、坐りましょう。
慧智(060905)


●野狐禅和尚の辻説法『日本人の在り方』 第987話 2006-09-02 (Sat)

ある現象の一部分には“その全体”に関する情報が封じ込められている、という法則性を明らかにしたのが高名な物理学者デビッド・ボームで、『ホログラフィックパラダイム理論』と言われています。言い換えると、全体を構成している如何なる部分でも、その全体に関する情報が入っているということであり、禅の世界では『一即一切』と表現されている“全体”に対する見方と酷似しています。
また、世界(宇宙)を“明在系”と“暗在系”、“顕前秩序”と“内蔵秩序”という二重構造として理解させようと、その著書である「全体と秩序」の中でそれを論証し、数式として表したのも前出るのデビット・ボームです。この考え方を平易に表現すれば、『明在系は目に見える世界(例えば物質現象)、暗在系は目に見えない世界(例えば力学現象)』と言っても差し支えないでしょう。言い換えれば、物質が無ければ力(秩序)は無く、秩序(力)が無ければ物質が無いといえるでしょう。つまり、変形された二元論ではありますが、禅で説いている『全ては不可分不可同』、全ての現象は相互補完性に立脚してのみ現象しているということと同じと解釈できます。仏教経典である華厳経には、『極小世界は同時に極大世界であると知り、極大世界は同時に極小世界であると知り、少しの世界は多くの世界、多くの世界は少しの世界、広い世界は狭い世界であると同時に、狭い世界は広い世界であると知り、一つの世界は無限の世界で、無限の世界は一つの世界であり・・・、そして、無限の時間は一瞬の時間であり、一瞬の時間は無限の時間であり、異なる時間の中に異ならない時間があり、異ならない時間の中に異なる時間があることを知り、有限の時間は無限であり、無限の時間は有限であると知り、無量の時間は一念であり、一念は無量の時間であると知り、一切の時間は無時間に入ることを知り、無時間はあらゆる時間に入ることを知ろう・・・、とあります。また、皆さんが良く知る“般若心経”も同じ事を表現を変え、繰り返し述べています。更には、それらは、ウイーンの心理学者ユングが言う“共間性(シンクロニシティ)”も、孔子の説く”道(タオ)“にも通じています。
 では、“全体”と“部分”、各々のシステムが上位に向かっては部分であり、下位に向かっては全体という関係を持つ現象は如何なる事なのか。近代の物理学の世界は『場の量子論』と呼ばれ、物質現象のみならず生命現象をも解き明かそうと、“心”という現象は“光量子(フォトン)”の凝縮体(凝縮性の実現)だという仮説が生まれています。この仮説が検証され展開されてゆくと、個人的な印象では老子の『道(タオ)≒自然の発する源』の考え方の正当性を追認するだろうと思っています。はないかと思います。『老子道徳経』に『道の道とすべきは常の道にあらず』とあるのは多くの人に記憶されている日本では常識の一部になっており、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という表現で、『一』は根源的な『一』であり、それを『太極』と言い、“形以前”のものと表現し、『二』は陰と陽、『三』は陰と陽と沖気(縁に似た概念で陰陽を調和させる力とされ、『三』から万物が生じていると述べています。つまり、森羅万象は例外なく“陰と“陽”が調和したり立っているということに他なりません。更に、「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」というように、諸行無常・無常迅速、根源的な実体なはく、全ては“力”の凝集性であり、モノは現象であって実在ではなく常に変化していると考えています。『変化』とは、日常語としては“進化”と同義語として知られ、大自然と調和して生きていれば、世界は滞留することなく進化できると示唆しています。言い換えると、大宇宙と根底で繋がる部分である小宇宙、宇宙と人間、自己と非自己はキリスト教的な二元論では考えることができず、正に一元論であり、究極の究極は極大であると同時に極小、宇宙と原子、生命と物質の関係は、相互浸透し、切り離すことは出来ないと考えられます。言い換えれば、それらを知って“縁”を重視した日常を生きていることが、人間の正しい生き方だと述べています。
つまり、真理を知り尽くした深層心理を有する私達日本人は、日本のあるべき姿の明示と発信を通じて、進歩する文明に調和しつつ、自然(≒本質)と共生するという文化を世界に発信し、持続可能な地球の保護者となるのが“自然”であり、それらの真理を具現化している“禅”を生命現象の中核に置いて生きてゆく“無対立・無犠牲・自主独立”と掲げた生き方を“国家”として選択すべきではないでしょうか。
最後に、“東洋”は人類の叡智の結晶であり、平和・安心・調和を実現する永世中立国家を宣言し、“世界の良心”という生き方を選択するのが当然であり、戦争放棄・思想信条、結社の自由と平等、つまり“慈悲”にあふれた『菩薩国家』を建設するのが“使命”だと言えるのではないだろうか。
慧智(080901)


●野狐禅和尚の辻説法『要望に応えて』 第986話 2006-08-31 (Thu)

 昨日の説法を読んで頂いた活人からの要望「和尚が何かを感じて使った句を教えてください。出来れば10字のものが知りたい」に応えますが、句の心は感じ取ってください。それでも言葉や文字に頼る己が恨めしい。
庵中閑打坐白雲起峰頭(庵中しずかに打坐すれば、白雲は峰頭に起る)
一華五葉開結果自然成(一華五葉開き、結果自然に成る)
遠山見有色近水聞無聲(遠山を見るに色あり、近水を聞くに聲なし)
家貧未是貧道貧愁殺人(家貧にして未だ是れ貧ならず、道貧にして人を愁殺す)
活人入棺材死人成隊送(活人棺材に入り、死人隊を成して送る)
十方無碧落四面又無門(十方碧落なく、四面又門なし)
随流認得性無喜亦無憂(流れに随い性を認得すれば、喜も無く亦た憂も無し)
世尊不説説迦葉不聞聞(世尊不説の説、迦葉不聞の聞)
清風拂明月明月拂清風(清風は明月を拂い、明月は清風を拂う)
大悟無佛法大徹無禅道(大悟に佛法なく、大徹に禅道なし)
鳥栖無影樹花發不萌枝(鳥は栖む無影の樹、花は發く不萌の枝)
日日是好日時時是好時(日日是れ好日、時時是れ好時)
以上、取り敢えず一年を思い出して・・・
慧智(090830)


●野狐禅和尚の辻説法『文字や言葉を過信しないということを伝えられる文字や言葉』 第985話 2006-08-29 (Tue)

 最近、辻説法が書けない。理由は、今まで行なってきた984回の説法で伝え切れていないのは何か、と考えていた時、『文字は要らないということを伝えられる文字は文字か』という疑問にぶつかり、Wそれ“を私は持っていないことに気付き、連日連夜Wそれ”を探しているが、未だに“それ”が見つからず、隻手の音が聞こえなくなりつつある今に喘いでいるからである。
禅は宗教であり“体験”である。体験である以上、再現することは無いので検証することができない。生涯における“一言”は、後にも先にも一回限り。同じ言葉を何度使おうと“それ”は同じ意味ではない。つまり、究極の思いは言葉で表現することは出来ないのである。言い換えると、教えることも教わることもできのである。正に『冷暖自知』と、冷たさや暖かさは自分で知るしかない。それを伝える言葉が『教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏』なのであるが、それは単なる言葉であって、自ら修行して体験するしかない。ところが、禅に関する書物は世の中にあふれているのは何故か。明らかに矛盾しているようにも思える。ところが矛盾などない。それは『不立文字』という言葉の解釈は奥深く、『文字を立てず、文教に随わず』と解し、文字や文字によって表現された思想や知識を第一義とせず、それらに左右されてはならないという標準的な解釈の外に、『不立底の文字』、つまり、文字や言葉を自由自在に操り、心を伝えるのに文字や言葉の束縛、限界に左右されてはならないという解釈である。勿論これらの解釈はAかBかというに二項対立である訳はなく、紙の表裏に書かれ、不可分不可同という関係にある。禅坊主の言葉は支離滅裂で理解できないと揶揄されることがあるが『橋は流れて、水は流れず』という言葉の意味が解れば、その言葉は不要であるのだ。解る者には言葉は要らないし、解らぬ者には言葉は無駄なのであるから言葉は要らない、と私が文字にしたら諸君は何と思うか。また、釈尊は死ぬ間際になって「四十九年一字不説」、悟りを開いてから死ぬ間際までの「四十九年間何も説かなかった」と発したということだが、一日も休まずに東奔西走して衆生済度を行なったのは何だったのかとも言いたくなる。考えると「説かなかった」ではなく「説けなかった」、十分に納得の行く説法は出来なかったという意味とも解すことが出来る。だから、『不立文字』と表現されている理解することも出来る。鈴木大拙は「文字がいらぬということを知らせるのに、いくら書いても足らぬので骨が折れますわい」と言ったと言われているが、言い換えれば「文字や言葉に頼らずに心を伝えること」の重要性を生涯渡り説き続けたということである。繰り返すが、“禅は体験”であって知識ではないのである。それでも、それを伝えたくなるのは禅坊主の性かもしれない。1000本目を目前にして
未だ“その”ような迷いごとを仰られるのも理解できるが、直喩、暗喩、隠喩・・・使い果たしても尚、伝えられない“心”とは何だろう。夜空を見上げて“指で月を指す”だけで1000本の説法を超えてしまう。つまり、私が指で月を指し示せば皆は月を見るだろう。身近な話では「文字ではなく行間を読め」という表現もある。しかし、それは文字を読んで文字に拘束されずに意味を読み取れということで、文字は不要ということではない。ところが、行間を勝手に読めば心が伝わらないこともある。それは情報の送り手と受け手の世界が異なるからある。そこで『人を観て法を説け』という方便が頭を擡げる。そうすると、次には方便が一人歩きして、“お化け”が登場し、“霊”などとい有りもしないものが大衆の心に住み着き、己の外に仏を作り、仏像という“モノ”に手を合わせる者が出てくる。そして、手を合わせる意味が曲解されて日常の文化となる。
 かくして、今、私は説法が書けない。“命”が軽視されている今日、“あるべき日本人像”、“あるべき日本像”、“あるべき人類増”を提唱して1000本辻説法を終わろうとしているが、そこに大きく横たわる『直指人心』に難しさ。未熟な己を否というほど思い知らされている。今日まで10万人近くの方が辻説法にアクセスしていただいた。その感謝の意味でも、私は伝えたい。1000本の指が何を指していたのかを。
慧智(060829)皆さん、一緒に坐りましょう!!


●野狐禅和尚の辻説法『我々が建設すべき“日本”その3』 第984話 2006-08-24 (Thu)

 『出家』とは、得度を得て僧侶となり、修行のために家を捨てること。つまり、寺で生まれた子供が実家の寺の跡を継ぐため得度を受け、雛僧として1〜2年程度の“お約束”型の僧堂修行に出るのは、厳密な意味で出家ではないし、雲水修行とは言えない。また、俗に『還俗(げんぞく)』と言われる『僧侶が俗人となること』、出家の対向概念とも違う。つまり、『出家』とは『先祖代々の苗字(氏)や生まれた時に付けられた名前(名)を捨て、家族との縁を切って、仏道の修行を行なうために自律・自立し、金を得る目的や目標での仕事に就かずに生きることで、寺に住まって専ら寺の仕事をすれば住持、一箇所に留まらず行脚しながら修行をするものが雲水といいます。勿論、前出は“厳密な環境的定義であり、現代では、必ずしもそれらの条件を満たしていることは稀だろう。
言い換えれば、『我欲を捨て全ての人々に対して利他を実践して生きる』のが“僧侶”であり、その境涯すら捨て仏道を極めんとして修行を続け、大衆から雲水から“勝手に”に師と慕われるような僧侶が“老師”なのである。淡々と少なくとも“執着”の源泉となっている“家族”を“他人”と区別したり差別したりして特別扱いせず、また、“私有物”を持たず、持てる能力の全てを、不特定多数の生き物やそれを包み養っている森羅万象の持続性に資する生き方をするのが『禅僧』だと私は信じています。
さて、表題の『我々が建設すべき“日本”』に住む『日本人』は、どのような“生き方”をすべきか。本来“それ(心)”を示すのが『憲法』であり、行動(体)に国民として最低限の義務的な制約(枠)を与え、対立を未然に防いだり、義務を果たさない国民に制裁を与えるのが『法律』である。そして、己の利益を考えずに社会に貢献しようとする心が『道徳』であり、一人ひとりが解釈した道徳が倫理観と言えるのではないだろうか。
つまり、毎日使用する必需品のみを最低限の『私有物』として、その他は『公共物』として行政サイドが提供しつつ管理し、国民はそれを“大事に使う”というのが“理想像”ではないだろうか。まあ、“それ”が“禁欲”の上に成り立っているのが社会主義国家であるが、現実には成功した国家が無いことからすれば、“夢物語”なのだろう。しかし、私が問題とするのは“形式”ではなく、“心”である。「一人が皆のために、皆が一人のために」生きることを自然なかたちで身に付け、身近な『ロールモデル(お手本)』に学べる地域社会が形成されているのが『日本の理想像』だと思う。
戦争容認し軍備を拡大することを是とする“憲法改正”の声が上がっている。紛争の手段として“暴力”を用いないという現憲法を更に進化させ『永世中立国』となるとか、『無抵抗主義』を国の心とする、という改正なら理解は出来るのだが、何故、平和に逆行する動きを考えるのだろうか。嘗て「**大学無用論(女子学生亡国論)」を書いてマスコミに散々に叩かれた知人と『戦争の価値』という小論を書こうとして“戦争(暴力が正当化された紛争)”について研究に着手し、戦争の原因の上位3位が宗教対立・水利権・経済対立であり、それらが有史以来の戦争の96%で、その首謀者の99%が男性・・・・、ということが解り出し、それを解釈すると“***教批判”となってしまうので、此処では避け、一つだけ特筆したことがあるので記しておく。それは『仏教徒』は戦争の被害者となったことはあるが『加害者』となったことはない、ということである。遠まわしな言い方になるが、『己の外に**無し』という思想では戦争は成立せず、『己の外に神を祭るものは戦う』という思想のみが戦争を作り出すのである。もし、戦死者が“神社”ではなく“寺”に合葬されていたらどうだろうか。そして、自衛隊という名の軍隊が『国際災害復旧隊軍』
というような名称で、戦車の数よりブルトーザー、駆逐艦より輸送船が多ければどうだろう。日本が国連の場で『永世中立』を近い、全ての自衛官を国家間紛争抑止の国連軍に編入させたら世界は日本をどう評価するだろうか。隣国から売られる“喧嘩”などオトナとして完全に無視し、国連統治地に編入してしまえばどうなのだろうか。どんな人間とも“等距離”で付き合うのと同じように、どの国とも等距離の外交関係を結べばどうだろうか。
 私が思うに、今の日本に必要なのは“政治的リーダーシップ”ではなく、“理想の日本人として生きているロールモデル(お手本)”ではないだろうか。私が思うに、そのモデルの心情は『無対立(相互に浸透しあい対立しない)・無犠牲(誰も犠牲にしないし、犠牲にもならない)・自主独立(一人ひとりが自分を主として相互に支援しあう存在)』というような表現で、それを踏まえて文明の進歩に調和する体制を確立してはどうだろうか。(つづく)
慧智(060824)


●野狐禅和尚の辻説法『我々が建設すべき“日本”その2』 第983話 2006-08-15 (Tue)

釈尊の教えでは、生老病死の苦しみを抜け出すと同時に人々が幸せになる方法を説いています。その中心とも言えるのが『四摂事〈ししょうじ〉です。『四摂事』は、“四つの人心掌握法”というと理解しやすいでしょう。『掌握する』とは、衆生を無条件に受け入れて治めるという意味です。言い換えれば、互いに慈悲の心で相互に包み合うことが“幸せへの道”と思って良いでしょう。『四摂事』は、一に布施、与えること。二に愛語、優しい言葉をかけること。三に利行、善行で人に利益を与えること。四に同事、相手の立場に成り切って同じ事をするということです。即ち、形式上では『異体同心』、真実は『一如』となることが“幸せの源泉”ということになりますが、それは“凡夫”が求める“幸せ”とは少し異なります。以前、『幸せとはどういう状態か』という調査と分析を生命保険会社の委託で実施したことがあります。その際、無作為抽出した約2万人の日本人から8万以上の回答を得て、回答の意味論的な解釈を行なった上で回答をグループ化したところ具体的な状況が例外なく3つの上位概念に帰結したのを思い出します。その3つとは『生きがいがあること・経済的に過不足が生じていないこと・健康に不安が無いこと』でした。詳しくは機会を改めますが、要するに、凡夫である我々大衆は、3つ要素の個々人の価値観や状況に異なりから重み付けは異なるだろうが、幸せとは“幸せの3つの要素”を得ている状態といえるのです。つまり少しだけ細かく言えば、3×2=6パターンの幸せがあることになります。そこを解釈すると、人生において幸せを享受するには6つの選択肢が手の届く所にあり、個人が固有に有する社会的な選択権を行使して、幸せに向かって歩くのが我々凡夫の『人生』の目的ということになるように思われます。勿論、生き物としての人間の受動的だが究極の目的は種の保存であり、目的に一段の具体性を加えた究極の目標、ないし人生の大目標は、適者として環境の変化に対応できる子孫を残すことであることは確かです。しかし、それはあくまで“受動的”であり、社会的能力を具備してきた『ヒト』ではなく『人間』としての能動的な目的は限りある時を“幸せに生きる”という理解をした方が良いでしょう。まあ、方便と言えば方便であるに違いはありませんが、「人を観て法を説け」を実践するなら、凡夫が悟りに達してから内容を勝手に解釈することなく“菩薩”となって読むべき『理趣経』の位置づけに類似しており、最終的には“今・此処を無心に生きる”ことこそ軽薄な幸せ概念を超えて、幸せや不幸という二項対立の先にある幸・不幸を止揚した“大安心(だいあんじん)”に住することが出来るのですが、凡夫の世界の概念である幸福・不幸といった状態を正しく感じ正しく理解できない者に今・此処で必要なのは、先ずは救いという不幸の撃退であり、次のステップとして幸福を獲得させ、そこから百尺の竿先へ歩を一歩進め、全ては幻想であり、執着する心を完全に捨て去り無心に生き始めたときの気分こそが大安心≒幸福ということは理解も納得も出来ないでしょうから、先ずは、多少危険を感じるが“方便”での導き必要だとする考えに妥当性と信頼性を感じます。
さて、幸せの原因となる4要素、幸せの状態を分類した3累計を理解して頂いたとして話を進めます。古いお経に『世尊は四摂事を説きたまへり。我、此によりて此大衆を摂す。」という釈尊の弟子との質疑応答部分があり、『四摂事』は皆過不足なくと理解すべきですが、釈尊の深層心理(重要なことは冒頭の言葉に投影されるという癖)から類推すると、重要性が高いのは『布施』だということになります。また、『四摂事』の実践が“仏教的善行”であり“幸せの源泉”なのですから自他一如という考え方に立脚すれば“私も貴方の世界も”皆そろってWIN−WIN、皆そろってハッピーということになるでしょう。今日の説法を要約すれば、『四摂法』の実践が山川草木、森羅万象の“幸せの原点”ということであり、この状態で満ち溢れている我が国(人類)の理想の国家像だと考えます。
★明日に続く。
慧智(060815)
* 今日は終戦記念日です。今の私達の生活の基礎となって頂いている多くの敵味方に関係なく戦没された方々に心からの感謝を申し上げましょう。


●野狐禅和尚の辻説法『己を信じ、目的を忘れず』 第982話 2006-08-11 (Fri)

 己の人生の目的は何か。先ずは“それ”に気付くこと。己の目的に気付いて真っ直ぐに“そこ”へ向かえば、必ず辿り着く。禅者であれば目的を分解した目標を意識せずとも、潜在意識が導く“縁”に従い、目の前の出現する諸行に全力でぶつかれば『大道無門』、道は必ず開ける。禅者であれば“それ”が体験的に解っているはず。
 しかし、禅者で無い者も多い。そんな方も『人生の目的』を明確にするのは同じである。言い換えれば、“夢”という妄想と決別し、有りもしない運・不運、過去の得意な結果を元にした先入観を捨てる。そして、合理的な発想で目的を目標(必要な要素)に、漏れなく・重複無く分解し、前後関係を考える。前後関係とは要素の積み上げ順序のこと。当たり前だが、『人類を病の苦しみから救う』という目的に直結する大目標を達成するためには、医者となる前には、国家試験に合格し、国家試験の前には医学部に入学し、医学部に入る前には、理科系科目に秀でた成績で高校を卒業し、高校を卒業する前には中学を、小学校を卒業する。その道をマッシグラに進むためには、健康である必要があり、それには、適度な運動をバランスの良い食事習慣が前提となる。勿論、人生は諸行無常。目標をクリアできない状況になることもある。そんな時のために、目標には必ず代替案を用意しておく。目標に囚われると目的を見失う可能性が大となる。つまり、目的に隣接する大目標すらも変える勇気を持つことである。況や目標など臨機応変。囚われることなく拘ることなく、只管に目的を目指すのである。『人類を病の苦しみから救う』という目的は、考えてみれば“医師”でなくても出来る。例えば、宗教家かもしれない。また病気にならないような体をつくる食育指導者や体育の指導者でも可能だろう。言い換えれば、頭が良いとか悪いとかに関わらず、自然の摂理は“目的を明確にした者”には、その目的達成に必要な“縁”が現生する。大胆に言えば「願いは必ずかなう」し、今、目の前に現れた“すべき事”に全力を尽くせば、それは必ず出来るようになる。つまり『したいこと』とは“目的”を指すことばであり、『すべきこと』とは“目標を示す言葉だとも言える。では、『出来ること』とは何だろう。簡単に言えば、『出来ることとは挑戦の結果』である。出来る事が沢山あるということは、目標の選択肢を増やすことであり、大道が大大道とすることである。禅者は、それらを潜在意識で行い、禅者でないものはそれらを意識的(顕在意識)に行なうというように考えてよい。もう少し詳しく言うと、禅者は中枢神経系、交感神経より反射神経、副交感神経、内分泌系、免疫系を活用しているのである。つまり、禅者は言葉を超えて全身で考え、禅者で無い者は言葉を使って頭で考えているのである。
 我々は38億年の生命体験を全身に分散させて過不足なく持って生まれてくる。ところが、多くの人間は『無一物中無尽蔵』という概念を無視し、言葉で考え、過去の経験に操られて“我(イーゴ)”に囚われ拘り、結果として偏った考えに陥り一喜一憂する人生を送っている。森羅万象、全ての“次”は諸行無常。それが真理である。つまり『変化する変数』を『不変の定数』とするような不合理な考え方をしてしまう。過去は決定、未来は不確定、事実とは“今・此処”だけなのである。それをとことん体得するのが『坐禅であり眼前する作務』なのである。勿論、禅が禅であれば禅ではないから、いわゆる伝統的で形式的な坐禅や作務、書だの茶だのに偏り拘り囚われる必要なないが、先人の成功体験が“形式”を作り上げてきたと考えれば、先ずは規矩作法に厳しい正統派の坐禅を奨める。利休百首百番にある『規矩作法、守り尽くして、破るとも、離るるとても、基を忘するな』の一言に全てが現れている。『大欲は無欲に通じて大道を歩み、小欲は強欲に通じて道を閉ざす』と私は断言する。
 平凡な表現をすれば、人生は一日を一生として何事にも全力で挑戦し、縁に従って行動しつづけることが大事なのである。
『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時人不待』+『無一物中無尽蔵』+『不立文字・教外別伝・直心人心・見性成仏』+『山川草木悉皆成仏』+『心身一如・生死一如』=一日一生なのである。それを解ろうと思えば『大死一番』、先ずは擬似的に死んでみることである。生きる時は活きる。死ぬ時は死ねば良い。それが『生き切る覚悟』である。
慧智(060811)


●野狐禅和尚の辻説法『我々が建設すべき“日本”』 第981話 2006-08-10 (Thu)

 家庭教育、初等・中等教育、が文科省のお役所仕事と三流政治家の思い付き、絵に描いたような集団浅慮が起こっているマスコミが見事に同調して“考えられない子供達”を大量生産し、巷はニート・フリータ、拝金主義者で溢れ帰り、“はき違えた自由”を青春と勘違いした頭はコンピュータ化し、体は成熟したが心が未成熟のままの“中人(オトナ子供)”が溢れている。
それに対し、親や教師は、その危険性に気付かず、只“キレル子供”に恐れをなし、未来を担う子供達に対し厳しい教育が出来ないでいる。否、“出来ない”というより、何も解っていないのかもしれない。
最近、各地の教育委員会から教員や保護者、学校経営の責任者を対象とする講演会に招聘されることが多い。多くの場合は『社会が必要とする人間とは』というような内容が求められるが、時として現役の先生に“道徳教授法”や立派な親達に“子供を正しく導く”、校長に“学校経営とは”などという、先生になる前に、親になる前に、校長になる前に見に付けておかなければならない内容を求められる。正に狂ってしまった日本を実感する。

そもそも、今、日本は何処へ向かっているのだろう。政治は何処へ向けて日本丸を走らせているのだろう。国民夫々が自分の能力や個性に応じて自分らしい夢を描き、己の人生の目的を明確にした上で、それを目標に分解して自己成長をさせるのは、正に人間に与えられた権利であると同時に義務であり、自分の人生に責任と権限を持って生きるのは、人間としての基本的な姿であることは誰でも知っている。しかし、現実が追いついていない。それは何故か。多くの専門家は、行過ぎた資本主義という美名に隠された“快楽主義”と指導者の思想解釈の誤りにより崩壊した禁欲主義(共産主義)に原因があることは理解している。しかし、それを公言すると体制から排除されることを恐れ沈黙を守り、男芸者そのものとして政治や経済の中で擬態として生きている。まあ、処世術と言ってしまえば良いのだろうが、今は“そんな悠長な事”を言っている場合ではない。
辻説法も公約どおりとすると余すところ19回。いろいろと考えたが、これからは少しだけ辛口な発言をしてゆこうと思う。理由は、今は無き『日本のロールモデル(お手本)』を再構築したいからである。究極的には持続可能な世界を担う日本の“あるべき姿”を示したい。それには、それが方便と解っていても、今立ち上がるべきは“禅者”だと信じるからである。
私は、“幸せに暮らしたい(≒幸せに死にたい)”。ということに関して国民の全てが合意できると思っている。それには、生老病死の四苦に加えて多くの苦を避けたいだろうとも思っている。ところが、一つの現象は受け取り方で、苦ともなれば楽ともなる事を頭では理解しているが、心が納得していないという現実がある。つまり、“それ”を打破すれば、『国民の相互補完と脱競争主義を背景にした“最小限の生産で最大限の幸福”』を得られる次代のモデルを見せられるだろう。『本来無一物』、そして『無一物中無尽蔵』。それは“所有から使用へ”“征服から調和へ”“枝葉末節から本質へ”という『持続可能な国家としてのあるべき姿』の原理原則を示せるだろう。そして、そこから、今、私達に必要な“生きる心構え(≒人の道)”が浮上させられると思う。今、この混迷する世に一筋の光を灯し、自らが率先垂範できるの“活人”の登場は、21世紀前半の吾ら禅者の使命だと私は考えている。命の限りを知って書き始めた1000本辻説法も余すところ僅か。これまで辻説法を読んで頂いた5万に及ぶ“縁者”に対し、何らかのヒントを残せれば望外の幸せと思いラストスパートをするものですので、思い出したら、辻説法を読んだり、大子や南伊豆の禅会に参加してくれればありがたい。では、月曜日から書き始めます。追伸、土日は禅会です。
慧智(060810)


original * Sun Board v3.1
arrange * super store v3.00